釣り師が寄り付かない沢には何かある

SFM

2022年08月16日 09:54

八月中旬。
何をやってもダメである。

それならダメ元で、初めての沢に出向いて魚影の有無や遡行の難易度などの確認作業をした方が建設的ではないだろうか。
ダメ元ではあるが投げやりではない。
そんな一日。

殆ど人に知られていない沢が地図上にある。
仮に知られていても、そうそうお手軽な場所でもなさそうである。
地形や周辺環境から察するところ、満更溪魚がいないわけでもなさそうに思える。

さて、それなら行こうか。
草いきれは夏の季語ではあるが僕は嫌いである。
さらに言うと、人いきれはもっとイヤである。



B場ちゃんは初めて入る沢にはとりわけ深い関心を示す。
地道な努力を惜しまず、結果を謙虚に受け止める男である。
口に出さないだけで冒険心に溢れているに違いない。
相変わらず咥え煙草ではあるが、クマ除けくらいにはなると思いたい。


大抵の場合、人が入らないということは何か理由があると思わなければならない。
入渓に手間が掛かるとか、遡行しにくい地形とか、藪でサオが振りにくいとか、過去に誰かが怪我をしたとか、頻繁にクマが出るとか、一人じゃ怖いとか、疲れるとか。
そのようなことを言い出せばキリがない。
はっきり言って屁理屈である。

時には知恵を絞り、汗を流し、覇気を駆使して難局を乗り越えればいいのである。
覇気は別としても、せめて知恵と汗ぐらいは出せなければ渓谷で生き残ることは出来ない。

昨今の釣り師は、往年の釣り師と比較すると明らかに軟弱である。
その一方で講釈だけは実にご立派なのである。
しかも横文字が多い。

さらに言うと、近頃の若い奴等は言い訳ばかりしやがって、他人をあてにする傾向が強い。
そのようなことで良好な釣り場が得られると思ったら大間違いである。
楽をして成功の果実だけを享受しようとしても、そうは問屋が卸さないのである。
頭を使え、頭を。

などと、いちいち目くじらを立てる必要は無い。
聞くところによると、世の釣り師たちの大半は情報収集能力に長けていながら、機動力には欠けるそうなのである。
多少なりとも、僕たちに釣れる余地が残されているのはそのお蔭なのである。
いずれにせよ、クルマ横付けで釣りたければ釣り堀にでも行けばよろしい。

まあ、ただの試し釣りである。
気楽にやろう。

そのようなことを思いながら意気揚々と降り立ってみればどうであるか。





落石だらけ、倒木だらけ。
散々な荒れ沢である。
うっかりすると、前のめりに転んで顔面を怪我しちゃいそうである。
それ痛いらしいよ。

肝心の魚影であるが、廃墟の如しとでも言えばいいのだろうか。
季節的な悪条件を差し引いても浮世というものは世知辛い。

しかもこの沢は高低差が大きい。
アタリがなければただ辛いだけの強制労働である。






やがてガレ場が終わりナメ床に変わる。


岩盤の亀裂に小さな魚影を発見できたものの、毛鉤を食わせるのは容易ではない。

後にも先にも釣果はこれだけである。




この沢筋の源頭には箸置きぐらいの岩魚たちが細々と棲んでいることが確認できた。

とびきりの貧果ではあったけれど、釣り師の受け止め方なんて、その時の釣果次第でコロコロ変わるものである。

一度や二度の釣行で一概に決めつけてはいけないと思うところではあるが、この沢にまた出掛けて来ることは多分ないだろう思う。
痩せ岩魚が僕たちの毛鉤を弾いただけのことである。
わざわざ人に話す心算もない。

仮にであるが、もっと魚影が濃くて釣りやすい沢だったらどうだったろうか。
そのような穴場であったら尚更他人になど言えるわけがない。
僕たちは口が堅いのである。


ずいぶん山歩きが早くなったじゃないか。
待ってくれ。置いて行かれちゃいそうだ。




足を止めてこれが野イチゴだと教えられる。




枝豆だけでお腹一杯。
やっぱり夏バテかね。




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