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2022年06月08日

尺が出るのはいいけれど  釣っても釣ってもキリがない

釣り始めてから数匹目。
なぜか尺上である。



少し間をおいてもう一本。
これも尺上である。




渓流域に棲む岩魚が尺を超えるまでには相応の年数に亘り過酷な環境を生き抜かなければならない。
そのような尺上に逢えたことに対して僕は釣り師として幸運と言わざるを得ない。

けれど、これを手放しで喜んでいいものだろうか。

格差社会に取り残された側であるこの僕には、おいしい話など転がり込んで来た試しがない。

物事には代償というものが付き物である。

いずれ、高いツケが回って来やしないかと、不安の方が先に立っちゃうわけである。

例えばであるが。
山中で方向を失って遭難するとか。
ツキノワグマとの戦闘に敗北して新聞に載るとか。
次の瞬間、岩盤の亀裂に躓いて転落したり、落石に当たったりなど、大怪我をしたり死んだりするとか。

いずれも釣り師として失格に値する実例であるが、首尾よく無事に釣行を終えたとしても、帰宅してみたらつゆ知らぬところで何かとんでもないことに巻き込まれている可能性もゼロではない。

小心者の岩魚釣り師としては、尺上が釣れる度に複雑な心境になっちゃうのである。


まあ、これぐらいであれば気兼ねなく釣っていられるのであるがね。














さて、次に登場するのは泣き尺である。

これが潜り始めた時はサオが音を立てて軋んだ。
折れるかと思った。




さらにもう一本。



後は野となれ山となれ。
無責任なことを言うようだけれど、釣れちゃったものは仕方がないとしか言いようがない。



やがて状況が打って変わり、木っ端岩魚が際限なく釣れ始める。






釣って釣って釣りまくる。
などと言うのは釣り師としての品格に欠ける。

釣っても釣ってもキリがないと、小声で呟くべき局面であると僕は思う。



やけのやんぱち日焼けのなすび・・・とまでは言わないけれど、尺上や泣き尺を釣るよりも、寧ろこのような小魚を釣る方が難しいのではないかと思いたくなるのが人情というものである。

まあ、このような時は潔く店仕舞いをするべきではないだろうか。
物事には潮時というものがある。


時折感じていた微かな甘い香り.



藤の花に目を留めたのは釣り終えてから。


帰路。
急斜面の肩にロープを設えつつ、身体機能が衰えたにも拘らず、口だけは達者な釣友に思いを馳せる。




滅茶苦茶な釣りだったけれど、やることはやっておいたよ。



  


2022年06月01日

魚が下手か 釣り師が下手か

山間地でも大方の雪が消えて、林道が通れるようになっているであろう頃合を見極める。

渓筋に降り立ってみれば日陰には少しばかりの残雪。



つぶさに分析したところ、今年も僕が一番乗りであると言い切って差し支え無さそうである。

さて、釣りを始めようか。

この渓の住民諸君。
久し振りに君たちに会うために僕はここに来た。
手荒なことをするつもりは無い。
僕は侵略者ではない。
君たちと共に渓の未来に向けた取り組みに尽力するパートナーである。

などというのは典型的な偽善者の台詞である。
釣り上げてから速やかに流れに戻そうと、鉤先のアゴを潰してから魚を掛けようと、渓魚に対して手荒なことをするためにやって来るのが釣り師なのである。

そのような身も蓋もない発言に対して世論というものは敏感に反応する。

次から次へと年端もいかぬ木っ端岩魚たちが猛反発。










さらに、稀に掛けた良型も食いが浅いと見えてことごとく釣り落とす。


この時期の岩魚たちの捕食がまだ下手なのか、釣り師である僕が下手なのか。

まあ、そのあたりに関しては、僕のウデが悪いということにしておけば物事が穏便に収まるのではないかと思う。


致し方なく、雪代が引けて其処彼処に引っかかっている流木を拾い集め、過去に無く盛大な火遊びに精を出す。





地合いが変わる昼下がり。







この日の努力はいずれ報われると思いたい。








釣り終えて煙草を一本だけ喫いながら、咥え煙草で田植えに精を出しているであろう釣友を思い出す。




後に聞いたところによると。
ちょうどその頃、前日のうちに手早く田植えを済ませた当のB場ちゃんは、別の渓の上流域に赴き、尺上2本に泣き尺1本を揃え、その他諸々を上げていたそうである。
誰にも見られることのない下品な笑みを浮かべていたに違いない。
しかも咥え煙草で。

まあいい。
日頃から努力を惜しまず、地道に釣行を続けているB場ちゃんのサオを立派な尺上がしならせたわけである。
僕にとってこれほど喜ばしいことがあるだろうか。




ただ、残念なことに彼は下戸である。

代わりに祝杯を上げるぐらいはお安いご用であるヨ。



  


2022年05月26日

この日の岩魚はよく引いた

気温、水温ともに許容範囲。
難があるとすれば、僕にとっては心地が良い溪の爽やかさを渓魚たちは少々不快に感じるらしい。

瞬間的に弾くような出方。
予想通りと言えば予想通りであるが、釣り師としてはやはり掛けにくい。
けれど、水面下での活性は相当に高まっているらしいことが見て取れる。

などと、わざわざ小難しい屁理屈を並べたりせずに、心穏やかに淡々と釣っていた方が精神衛生上は好ましいに違いない。

そのようなわけで、地道にコツコツとありふれた釣果を積み重ねる。











淡々と釣っていながら、体長に似つかわしくない引きの強さ。

よくよく見ればけっこうな魚体。
背肉の付き方に暫し目を瞠らされる。


釣り終えてみれば、思い出すのは掛け損ねた魚たちや、掛けておきながら逃げられちゃった魚たちばかり。
淡々と釣るなどと言っておきながら、心穏やかならぬ正直者の本心はせいぜいそんなところである。




帰り際。
微かにハルゼミの鳴き声。
確かに聞いたよ。



  


2022年05月18日

つゆ知らず 掛かっていたのは尺岩魚

岩魚は適度に散っていて、流芯の深みに付いている。

沢筋の陽気は涼しく、風向きが変わる。

岩魚が浮いてくることは期待できそうにない。

そこで、流芯の白泡や波を直撃するのだけれど、流れに乗せた毛鉤はすぐに沈み、どこを流れていることやら。
キャストした本人にも見当がつかない。

それでも、ごく稀にではあるが、上げてみると鉤先に岩魚が付いていることがある。

そのような偶然の産物に縋り、延々と同じ事を繰り返すだけなのである。

要するに、岩魚の側が勝手に毛鉤に食いつけばよいではないかという、極めて他力本願で無責任な釣りなのである。

マッチ・ザ・ハッチもナチュラル・ドリフトもお構いなし。

そんな局面。

フライフィッシングなんてそんなものだヨ。などということは口が裂けても言わない方がよろしい。


偶然の産物たち。












困ったことに、この尺上も偶然の産物である。



悪い冗談に思えなくもないけれど、偶然は偶然であり、悪気があってやったわけではない。
こればっかりは面目無いとしか言いようがない。


因みに、この尺上を女優に例えたらどうなるだろうか。
まあ、そのあたりは奈良県在住のゆみ王さんという非凡なる御仁が、いずれご一考下さることと思う。


などと、年甲斐も無く火遊びに耽る昼下がり。




さて。
察するところ、全身黒ずくめが通過したのはつい今しがたに違いない。



彼等はけっこうどこにでもいて、日中は藪に潜み、通過する釣り師を穏便にやり過ごしているらしいのである。
鉢合わせしないだけで、山中に仕切りは無い。
この地に限らず、本州のほぼ全域に分布しているわけであるから、釣り師にとっては身近な存在なのである。
ほんの手を伸ばせば届くほどの身近な藪の中に黒い塊が蹲っていながら、ただ釣り師が気付かないだけなのである。
彼等が出没しないと言い切れる溪は無い。

何事も、互いに理解を深め合うことが平和への道であると僕は思う。



ハルゼミが鳴き始めるのは時間の問題。




いずれ溪は弾ける。







  


2022年05月12日

介護フィッシングに向けて

この季節の渓魚は、前日から気温が下がると著しく活性が下がり、底に張り付きがちになる。

初めて来た釣り師はこの川には魚がいないと決め付けたくなるだろうけれど、釣りには日柄というものがあるから、第一印象だけで釣り場を判断しない方が得策だと僕は思う。

そのような日柄であるから、本来はサオを出すべきでないことはわかっているけれど、この日の目的は釣りそのものではなく、入溪ルートの整備である。

近年、急速に身体機能が衰えた釣友たち。
かつては、いずれもそれなりの業師揃いではあっただろうけれど、このところは経年劣化に磨きがかかり、見ているこっちが心配になっちゃう。
今期を逃すと、彼らがサオをしならせる機会はこの先に巡って来るだろうか。

そこで、いくらかマシなB場ちゃんと僕が一抹の責任を感じるに至り、老体に鞭を打ち、入渓ルートの藪を刈り、足元の倒木を取り除き、ロープが必要な急斜面を点検したわけである。




その上で、彼らの安全安心な釣行計画を作成するための試し釣りなのである。
まるで釣り場のケアマネージャーである。

要するに、我が釣友たちが釣り場に立つには介護が必要なのである。

そうは言っても、逆の立場になるのは時間の問題。
そこはお互いさまなのである。

情けは人の為ならず。


試し釣りの結果はどうか。

余程のことがなければドライフライで通すB場ちゃんではあるが、この低活性である。

日頃の信条を曲げて、浮木を付けてニンフを沈めざるを得ないのは数えるほどの木っ端岩魚を掛けるためである。
「・・・背に腹は代えられない。」
聞いたヨ。確かに。





致し方なく僕も毛鉤を沈める。

数少ないアタリを取った結果はやはり僅かな木っ端岩魚ばかりである。






恐らく、このサイズの魚たちは良型が動いている時には出たくても出られないに違いない。

けれど、彼らがいてくれるから渓の未来に希望が持てるのである。



馬を水辺に連れていくことは出来ても無理に水を飲ませることは出来ないというのは英国の格言である。

デイサービスに通うことを嫌がる高齢者も多いそうである。

無理強いするわけにはいかないけれど、我が釣友たちは釣行に意欲を示すだろうか。



山桜が咲いたよ。




残雪が消える頃は新緑の初夏。








  


2022年05月07日

思わぬところに尺岩魚

前回の投稿で、今年の初入渓は当分先になりそうなことを言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに釣りに行っちゃうあたり、釣り師として不徳の致す所であると言わざるを得ない。

ここは比較的近場だけれど、まだやったことがないから、この機会にどうだろうかと持ち掛けてきたのはB場ちゃんである。

実は僕も初めてなのである。

往年の釣り師によると、頻繁にクマが出るとか、帰路に足を踏み外して足の骨を複雑骨折したなど、その類の話が絶えなかったそうであるが、近年では語られることも無く、時代の流れに取り残された感がある。

思慮深いこの男が僕に白羽の矢を立てたということは消去法の結果であり、万一の場合は僕を捨て石として利用してやろうとでも言いたげな思惑がありありと見て取れちゃうから困っちゃうのである。
まあいい。
釣り師というものはそういうものである。
成長したネ。





動く底石、連続するノド、けっこうな高巻き。
加えて、年中頻繁に落石が起きているらしい形跡、そうそう死ぬようなことはないだろうけれど、どちらかと言えば釣り師にとっては悪渓であると思う。

などと、総合的かつ俯瞰的な分析をこの僕にさせておきながら、初めて入渓した川であるにも拘わらず、立て続けに魚を掛け始めるB場ちゃんというこの男、一見したところ謙虚さを醸し、対人関係では常に礼節を携えているように見えて、実はけっこう図太い神経の持ち主ではなかろうかと思わせられる。
しかも咥え煙草である。






どれ。
やってみると、其処彼処の小さなポケットや巻き返しに沈んでいることがわかる。





どこか食いが浅いように思えるけれど、まあ、出てくれるに越したことはない。
付き場との距離を詰めたセコい釣りではあるけれど。






さて。
ほんの小さな鏡に毛鉤を置いたところ、白泡の下から出ちゃったのがこの尺上である。



はっきり言って予定外である。
こればっかりは魔が差したとしか言いようがないのであるが、取るに足らない場所にこのような尺上が付いていることを見抜けなかったことに対しては責任を重く受け止めなければならない。

せっかくであるからB場ちゃんに釣ってもらいたかったのだけれど、釣れちゃったものは仕方が無い。


あまり写真にこだわり過ぎると撮る前に逃げられちゃうよ。
そんな経験、あるでしょ。




適切な時期に入渓すれば相応に釣れる事はよくわかった。




いずれ、遡行ルートを点検して危険箇所を整備しておこうか。







  


2021年09月25日

木っ端岩魚たちは自然繁殖の証

禁漁前。
悶々と思い悩んだ挙句の入渓。



何をどうやっても流れの本筋からは出て来ない。

致し方なく、付き場との距離を詰めて、泡の立つポケットを執念深く叩き続ける釣りである。
実を言うと、僕にとっては精神的苦痛を伴う。

因みに、この類の釣りを好むのはB場ちゃんである。







苦心して掛けてはみるものの保育園のような有様である。
僕は子供が嫌いなわけではないけれど保育士ではない。

そうそう尺上が釣れるとは思っていないけれど、こう小魚ばかりでも参っちゃうのである。

今は釣れてくれなくても構わないから、再来年あたりに釣れてほしいと思うところであるが、明るい未来を担う次世代の渓魚たちは逞しい。

その時になって僕が釣り場に立てる保証はない。









因みに、このところはヒキガエルと遭遇する確率が高いけれど、ツキノワグマとはご無沙汰である。




脱渓地点の尾根。

人目につかない急斜面の残置ロープはB場ちゃんの仕業に違いない。




釣果には恵まれなかったけれど、釣友というものは得難い。

稲刈りは終わっただろうか。



  


2021年09月20日

岩魚釣り師は貧果に耐える

溪筋はまだ薄暗いながら、山肌に差す朝日には秋晴れの予感。




入渓点で僕を出迎えてくれたのはヒキガエルである。



おはよう。


溪の状況を入念に分析。

砂地に残された足跡は生々しいけれど、石が濡れていないところから前日のものであると断定。

よせばいいのにとわかっちゃいても、期待が高まるのは毎度のことである。


ところが。
水量、水温、風向きなどには全く問題はないのだけれど、岩魚たちの機嫌だけが麗しくないから困っちゃうのである。


長い空白の時間が過ぎる。


忘れた頃に大場所から似つかわしくない木っ端岩魚。








釣れない時ほどペースが速くなり、集中力が削がれる。


釣りに見返りを求めるのもどうかと思うけれど、場所が場所だけに、遡行に伴う肉体的苦痛の代償として愉悦を得たいのが人情というものではないだろうか。







そんなことを思いながら脱渓前にささやかな釣果。










苦しまぎれに潜り込んだ枝沢。

手足を藪に絡められながらのキャストは肩が凝るけれど、本流から差した岩魚で心を慰める。









さて、禁漁になったら何をして過ごそうか。




などと、師の手製の肴で思いに耽る。




何年経っても同じ事の繰り返し。



  


2021年09月12日

釣りへの期待が絶望に変わる

予想外の増水に途方に暮れる釣り師が二人。



天候によるものではなく、ダムの放水によるものである。
犯人は東京電力リニューアブルパワー株式会社である。

因みに、このところ低迷を続けていた東京電力ホールディングス株式会社の株価は、先週後半に大きな動きが見られたようである。
市場関係者によると、自民党総裁選の某候補者による、当面は原発容認の発言に影響されたことになっているそうである。


落ちたら死ぬヨ。




そういうわけであるから、肝心の釣果はお察しのとおり散々である。

そんな一日。





これぐらいの魚体は釣り師に罪悪感を残す。






これでチャラ。
心理的には相殺である。







B場ちゃんの竿がしなったのは後にも先にも一度だけである。





この男は以前に、数を釣るよりも、困難な状況を克服して漸く一匹を釣った方が嬉しいと発言しているのである。
聞いちゃったかと言われれば確かに聞いちゃっているのである。
彼は自身の発言に責任を持つ男である。
最高に嬉しいと思わなければならない。
今こそがその時である。


まあいい。
焚火ぐらいは熾してあげるヨ。




渡らなければ帰れない。
歩いて渡れなければ泳いで渡ればよろしい。




釣友の一人にKONちゃんという男がいるが、このところは釣り場に立つ機会がないようである。
今頃は細い眼をさらに細くして孫と戯れているに違いない。
彼のような男にもこの流れを渡らせてあげたいと願う僕は心底優しい釣り師である。


まあまあ。
岩魚はあまり釣れなかったけれど、無券遊漁者が釣れたじゃないか。




温泉に寄って帰ろうや。




  


2021年08月29日

岩魚釣り師と緑のたぬき

入渓には少々手間がかかるけれど、気象条件、昨今の社会情勢などを鑑み、消去法で選択したこの溪。

沢屋にとってはお手頃なルートであり、歩き慣れていない釣り師には少しばかり敷居が高いようである。





きれいな沢水。
涼しげな滝。
独特のナメ床。
尾鰭が大きい岩魚。

この日も沢屋と釣り師が混在して、揃って上流に向けて遡行に精を出すあたり、けっこう根強い人気があるらしい。


残暑厳しき折、釣果は知れている。











B場ちゃんのサオがしなる。





当日の朝、この几帳面な男は珍しく寝坊をして遅刻をいたしたのであるが、もしかしたら何かに疲れているのではあるまいかと、つい心配になっちゃうのは彼の日頃の行いによるところである。



今回のお題は緑のたぬきである。
1980年の発売以来、幅広い支持を得ている東洋水産株式会社のロングセラー商品である。



ふやけるのが早いから、手早く済ませる沢筋での食材として具合が良い。
某格安スーパーでは値段も手頃であり、僕自身も長年愛用しているわけであるが。

問題は東京都庁のたぬきである。

どのように支離滅裂なメッセージを発信しているかおおよその察しはつくけれど、沢屋であれ、釣り師であれ、このような時期に、このような辺境までわざわざ東京都民が押し寄せて来ることと全く無関係とは思えないのは僕の思い過ごしだろうか。

漁場を監視しているとよくわかるのだけれど、新規感染者数が増加するほど、その地域からの入渓者が増えるのである。

要するに、このところは緊急事態宣言発令中の都府県からの入渓者が大半を占めてちゃっているわけである。

緊急事態宣言というものは人流を抑制するものではなく、県境を越えての入渓を促進するものであると言わざるを得ない。

いちいち統計を取ったわけではないけれど、エビデンスに基づく見解とはそういうものである。





禁漁まであと一カ月。

渓魚の腹中には卵や白子が漲り、水中では産卵活動の準備が始まる頃合い。

今、入渓しないと誰か死ぬのだろうか。