2017年07月31日
フライフィッシャーにしかできない釣りがある
テン場が整った。
天幕を張って、焚き物を大量に集めるだけだけれど。
天気予報ではしばらく雨続きで少し不安だけれど来てしまった。
僕はここで三日間、岩魚釣りだけをして過ごすのである。
ここまでの道中は、漕いだり、潜ったり、跨いだり、ヘツったりを繰り替えさなければならない。
むしろ、心中穏やかじゃないと言った方がいい。
僕もそろそろ歳を考えなければ。
万一の場合、溪師失格になる。
それだけで済めばいいが・・・。
こんな所はとてもじゃないが人様にお勧めできない。
そうは言ってもこの溪の岩魚は掛けたときの重さが違う。
背肉のつき方が違う。
胴に指が回らない。
この溪の岩魚はこうでなきゃいけない。

釣果のことはあまり深く考えなくていい。
雨の合間に釣りたいだけの岩魚を釣ればよろしい。



ここに来てしまったらその日はもう帰れない。
それなら明るいうちから少しぐらい飲んでもいいんじゃないだろうか。
ウィスキーを小分けにして釣りながら時々チクリとやる。

魚の付き場からなるべく遠く離れてキャストして、毛鉤を長時間水面に置くのだけれど、うまくいったときは一回で出る。
うまくいかなければ弾かれる。
二度目は出ない。
やるべき事をやれば釣れる。
そうでなければ釣れない。
これをゲームと言うのだろうか。
この溪に立ち入ることはしんどいけれど、こんな釣りはフライフィッシャーにしかできない。


溪の夜には焚き火が無くてはならない。
火を眺めていると時間を持て余すことはまず無い。
それならお酒が大量に無くてはならない。

このテン場で焚き火を熾すのは僕だけになった。
当時、この釣り場を拓いた名人たちは潔く引退した。
若い力は勢い余って溪師失格になった。
消去法に従って、大して取柄のないどっちつかずの僕だけが生き残った。
それがこの溪の現実である。
すき焼きなどやりつつ、思いを馳せる。

溪の住人たちがテン場に入れ替わりやってくる。




この釣り旅が終わるとほっとする。
肩の荷が下りる。
来年まで思い出だけで生きられる。

三日振りの温泉とキュウリとミョウガの糟仕立てが身に沁みる。
天幕を張って、焚き物を大量に集めるだけだけれど。
天気予報ではしばらく雨続きで少し不安だけれど来てしまった。
僕はここで三日間、岩魚釣りだけをして過ごすのである。
ここまでの道中は、漕いだり、潜ったり、跨いだり、ヘツったりを繰り替えさなければならない。
むしろ、心中穏やかじゃないと言った方がいい。
僕もそろそろ歳を考えなければ。
万一の場合、溪師失格になる。
それだけで済めばいいが・・・。
こんな所はとてもじゃないが人様にお勧めできない。
そうは言ってもこの溪の岩魚は掛けたときの重さが違う。
背肉のつき方が違う。
胴に指が回らない。
この溪の岩魚はこうでなきゃいけない。
釣果のことはあまり深く考えなくていい。
雨の合間に釣りたいだけの岩魚を釣ればよろしい。
ここに来てしまったらその日はもう帰れない。
それなら明るいうちから少しぐらい飲んでもいいんじゃないだろうか。
ウィスキーを小分けにして釣りながら時々チクリとやる。
魚の付き場からなるべく遠く離れてキャストして、毛鉤を長時間水面に置くのだけれど、うまくいったときは一回で出る。
うまくいかなければ弾かれる。
二度目は出ない。
やるべき事をやれば釣れる。
そうでなければ釣れない。
これをゲームと言うのだろうか。
この溪に立ち入ることはしんどいけれど、こんな釣りはフライフィッシャーにしかできない。
溪の夜には焚き火が無くてはならない。
火を眺めていると時間を持て余すことはまず無い。
それならお酒が大量に無くてはならない。
このテン場で焚き火を熾すのは僕だけになった。
当時、この釣り場を拓いた名人たちは潔く引退した。
若い力は勢い余って溪師失格になった。
消去法に従って、大して取柄のないどっちつかずの僕だけが生き残った。
それがこの溪の現実である。
すき焼きなどやりつつ、思いを馳せる。
溪の住人たちがテン場に入れ替わりやってくる。
この釣り旅が終わるとほっとする。
肩の荷が下りる。
来年まで思い出だけで生きられる。
三日振りの温泉とキュウリとミョウガの糟仕立てが身に沁みる。
2017年07月23日
釣って釣って釣りまくる・源流王に僕はなる
岩魚を掛けたら引きを味わいたいのは人情だと思うけれど、そうそう優雅に釣っていられないところがミソだと思う。
場を荒らさないように素早く引き抜かなくてはならない。
毛鉤も長く咥えさせておきたくない。
早く回収して長持ちするように気を使う。
一本の毛鉤で10匹ぐらいは釣らなければならない。
釣りだけが目的でここまで来る奴がいたら、そいつは相当イカレてると思っていい。
滅多にはいないけれど、ごく稀にいるようである。
少々、耳が痛い。
ここはステージが違う。
沢筋で方向を失って自力で帰れなくなったり、ツキノワグマの攻撃を躱さずに正面から受け止めたりして、釣師として脱落していく事例が実際に起きる。
やめときゃいいのに。
世の中は広いけれど、同情してくれる声は意外に少ないのが現実ではないだろうか。
この体高、少しだけ自慢させて頂けませんかね。

この尾鰭もご覧いただきたい。

釣った岩魚は下流側へ放さなくてはならない。
伝令が走るとあとがやりにくくなる。


毛鉤はアイの付いたチヌ鉤やセイゴ鉤などに巻くと、折れたり伸びたりせず具合がいい。
スズキを釣るための鉤で、せいぜい尺程度の岩魚を釣っちゃうのである。
ただただ、釣っちゃ放しを何十回も繰り返すだけなのだけれど、なぜか楽しい。


ただ岩魚を釣るだけではいけない。
下品な笑みを浮かべつつ、「ただいま」と言って釣りが終わる。

帰り道で見つけた花。


場を荒らさないように素早く引き抜かなくてはならない。
毛鉤も長く咥えさせておきたくない。
早く回収して長持ちするように気を使う。
一本の毛鉤で10匹ぐらいは釣らなければならない。
釣りだけが目的でここまで来る奴がいたら、そいつは相当イカレてると思っていい。
滅多にはいないけれど、ごく稀にいるようである。
少々、耳が痛い。
ここはステージが違う。
沢筋で方向を失って自力で帰れなくなったり、ツキノワグマの攻撃を躱さずに正面から受け止めたりして、釣師として脱落していく事例が実際に起きる。
やめときゃいいのに。
世の中は広いけれど、同情してくれる声は意外に少ないのが現実ではないだろうか。
この体高、少しだけ自慢させて頂けませんかね。
この尾鰭もご覧いただきたい。
釣った岩魚は下流側へ放さなくてはならない。
伝令が走るとあとがやりにくくなる。
毛鉤はアイの付いたチヌ鉤やセイゴ鉤などに巻くと、折れたり伸びたりせず具合がいい。
スズキを釣るための鉤で、せいぜい尺程度の岩魚を釣っちゃうのである。
ただただ、釣っちゃ放しを何十回も繰り返すだけなのだけれど、なぜか楽しい。
ただ岩魚を釣るだけではいけない。
下品な笑みを浮かべつつ、「ただいま」と言って釣りが終わる。
帰り道で見つけた花。
2017年07月18日
人の褌で岩魚を釣る
常々、ロングキャストで岩魚を釣りたいと思っているのだけれど、そもそもロングキャストが出来るのかと訊かれると、途端に口数少なに沈黙させられる。
細かいことはさておいて、要するに志の問題なのである。
そんな思いを秘めつつ出向いた溪。
期待に反して、適正水温の上限を超えてしまった。
まだ梅雨明けしていないのに、岩魚が夏バテする水温になってしまった。
セミの鳴き声も春ゼミからヒグラシに変わってしまっている。
数少ない良型。


時々、木っ端岩魚がちょっかいを出すけれど、毛鉤の方がもったいない。
ただでさえ脆弱な僕の集中力がもたない。
忘れた頃にイヤな出方をされると合わせ切れなどをしたりする。
溪相が良いだけに少しばかり恨めしい。



さて、ここ暫く大方の釣行をこの単車に頼っている。
これが無いと僕の釣りは成り立たないと言ってもいい。
単車依存症である。

これ、実を言うと人様の単車である。
けれど、所有者の好意で僕に使用権が認められているのである。
つまり、人様の単車で入溪して岩魚を釣っているのである。
人の褌で相撲を取る見本がここにいる。
単車のみならず酒の肴も。

さらに、下味をつけた丼のネタまで。

作り方が気になるけれど訊いてはならない。
必ず知る時が来るに違いない。
細かいことはさておいて、要するに志の問題なのである。
そんな思いを秘めつつ出向いた溪。
期待に反して、適正水温の上限を超えてしまった。
まだ梅雨明けしていないのに、岩魚が夏バテする水温になってしまった。
セミの鳴き声も春ゼミからヒグラシに変わってしまっている。
数少ない良型。
時々、木っ端岩魚がちょっかいを出すけれど、毛鉤の方がもったいない。
ただでさえ脆弱な僕の集中力がもたない。
忘れた頃にイヤな出方をされると合わせ切れなどをしたりする。
溪相が良いだけに少しばかり恨めしい。
さて、ここ暫く大方の釣行をこの単車に頼っている。
これが無いと僕の釣りは成り立たないと言ってもいい。
単車依存症である。
これ、実を言うと人様の単車である。
けれど、所有者の好意で僕に使用権が認められているのである。
つまり、人様の単車で入溪して岩魚を釣っているのである。
人の褌で相撲を取る見本がここにいる。
単車のみならず酒の肴も。
さらに、下味をつけた丼のネタまで。
作り方が気になるけれど訊いてはならない。
必ず知る時が来るに違いない。
2017年07月11日
岩魚が笑えば膝も笑う
梅雨の中晴れ、この高地に住む寒冷地仕様の岩魚たちは、今頃になってやっと活性が上がり始める。
雨の合間をみて出掛けることであるから、天気にはよくよく気をつけなければならない。
一度入溪すると、夕方まで帰って来られない地形でもある。
釣りに費やす時間より、行き帰りの歩行時間の方がはるかに長い。
いい歳になって、わざわざそんな所まで・・・。
そうは言っても・・・ちらほらと先が見えてしまった釣り人人生。
要するにそういうことなのである。
この心情、わかって頂けませんかね。
ここまで苦労してやって来ると、釣りがとても忙しい。



そこら中から湧いて出る岩魚のおかげで休む間がない。
この日、この溪ではちょっとした人手不足である。



相談相手は時計の針。
写真を撮るのもなぜかもどかしい。
多分、片手にはいくつか届いていないと思うけれど、僕にしては上出来ではないだろうか。


膝が笑う。
腰が砕ける。
満身創痍。
にもかかわらず、ワサビ漬けなどを肴に昇天する刹那。
少しばかり、品の悪い笑みが漏れていることと思いたい。
早朝の日の出を思い出しつつ・・・。

雨の合間をみて出掛けることであるから、天気にはよくよく気をつけなければならない。
一度入溪すると、夕方まで帰って来られない地形でもある。
釣りに費やす時間より、行き帰りの歩行時間の方がはるかに長い。
いい歳になって、わざわざそんな所まで・・・。
そうは言っても・・・ちらほらと先が見えてしまった釣り人人生。
要するにそういうことなのである。
この心情、わかって頂けませんかね。
ここまで苦労してやって来ると、釣りがとても忙しい。
そこら中から湧いて出る岩魚のおかげで休む間がない。
この日、この溪ではちょっとした人手不足である。
相談相手は時計の針。
写真を撮るのもなぜかもどかしい。
多分、片手にはいくつか届いていないと思うけれど、僕にしては上出来ではないだろうか。
膝が笑う。
腰が砕ける。
満身創痍。
にもかかわらず、ワサビ漬けなどを肴に昇天する刹那。
少しばかり、品の悪い笑みが漏れていることと思いたい。
早朝の日の出を思い出しつつ・・・。
2017年07月08日
ネマガリダケとへそ曲がり釣師の腐れ縁
ネマガリダケ、正式にはチシマザサと呼ぶと教えられた。
実のところ、僕は好きになれない。
味のことじゃない。味が悪いわけじゃない。
好きになれないのは、年に何度か戦わなくてはならない相手だからだ。
溪屋としては藪漕ぎを避けて通れないのである。
嫌々ながら笹薮に身を投じるのだけれど、忽ち笹のアクだらけになり、手足を絡め捕られ、心が澱む。
これが成長してしまうと源流行をことごとく邪魔することになる。
太古からの自然の一部とはいえ、僕にとっては最悪の抵抗勢力である。

タケノコ採りなど、僕には苦痛以外の何物でもない。
仮に、依頼をされてもきっぱりとお断り申し上げる。
カネの入った包みをちらつかされて、「些少ながらお納めください。」などと持ち掛けられても、「無礼者!」と言いつつ一蹴しなければならない。
そのあと、独りになってから件の包みを思い出して密かに後悔しなければならない。
多分。
ところが、このタケノコが出始めると、憑りつかれたかの如く、朝の暗いうちから血相を変えて笹藪の中に飛び込んでいく善男善女が後を絶たない。
結果的にほぼ毎年のように善男善女のごく一部ではあるが、山中で方向を失い、彷徨い、さらに不運が重なると力尽きて、「物言わぬ人になる」事故が後を絶たないところがこのタケノコの特殊性だろうか。
一度でも経験したことがある方はお判りだろうが、笹薮での五体の不自由さといったらけっこう凄い。
ところがそんな命懸けの苦行にも拘らず、皮を剥いて節や硬そうなところを取り除くと、食べるところは鉛筆の先端ぐらいになってしまう。
反面、捨てるところは山盛りになる。
つまり善男善女諸氏は、ご苦労なことに山中から大量の生ごみを抱えてご帰還なさったのである。
試しに、街道沿いの道の駅や物産館などで、このタケノコの瓶詰めの値札をご覧いただくとよろしい。
きっと貴方は見なかったことにして、素早く瓶を棚に戻さなくてはならない。
北信濃ではこの宝物のような身は、鯖の缶詰と一緒に味噌汁の具になったり、焼かれたり、揚げられたり、煮られたり、なかなか忙しそうである。
この一椀のために、どれだけの洗濯物が山積みになったことだろうか。
どれだけの血と汗が流されたことだろうか。
加えて万一の場合、捜索には少なからず人手と公金が投入されるのである。
事の発端はたかがタケノコごときである。
(聞くところによれば、たかが岩魚でもしばしば似たような事例が起きるそうである。)
これほど費用対効果(今の若い人たちはコスパなどと言うようであるが)の低い食材が他にあるだろうか。
さて、僕自身は理不尽に思いながらも人様には言えない深いワケがあって、衰え始めた身体に鞭を打ちつつ、毎年のように笹薮に入らなければならない。
そこがまた、並の笹薮じゃない。
人生、時には一人で抱え込まなければならないことがある。
この藪漕ぎは欲や道楽ではない。
溪屋としての矜持である。
先達の恩恵を無にしてはならない。
これを怠ったり、人任せにするような根性では溪屋失格である。
岩魚はタダでは釣れないのである。
ほら、これほどに素晴らしい体高の此奴等が「来るなら来てみろ。」などと言う。

その忌々しいタケノコで一杯。
年に一度ぐらいは・・・。

実のところ、僕は好きになれない。
味のことじゃない。味が悪いわけじゃない。
好きになれないのは、年に何度か戦わなくてはならない相手だからだ。
溪屋としては藪漕ぎを避けて通れないのである。
嫌々ながら笹薮に身を投じるのだけれど、忽ち笹のアクだらけになり、手足を絡め捕られ、心が澱む。
これが成長してしまうと源流行をことごとく邪魔することになる。
太古からの自然の一部とはいえ、僕にとっては最悪の抵抗勢力である。
タケノコ採りなど、僕には苦痛以外の何物でもない。
仮に、依頼をされてもきっぱりとお断り申し上げる。
カネの入った包みをちらつかされて、「些少ながらお納めください。」などと持ち掛けられても、「無礼者!」と言いつつ一蹴しなければならない。
そのあと、独りになってから件の包みを思い出して密かに後悔しなければならない。
多分。
ところが、このタケノコが出始めると、憑りつかれたかの如く、朝の暗いうちから血相を変えて笹藪の中に飛び込んでいく善男善女が後を絶たない。
結果的にほぼ毎年のように善男善女のごく一部ではあるが、山中で方向を失い、彷徨い、さらに不運が重なると力尽きて、「物言わぬ人になる」事故が後を絶たないところがこのタケノコの特殊性だろうか。
一度でも経験したことがある方はお判りだろうが、笹薮での五体の不自由さといったらけっこう凄い。
ところがそんな命懸けの苦行にも拘らず、皮を剥いて節や硬そうなところを取り除くと、食べるところは鉛筆の先端ぐらいになってしまう。
反面、捨てるところは山盛りになる。
つまり善男善女諸氏は、ご苦労なことに山中から大量の生ごみを抱えてご帰還なさったのである。
試しに、街道沿いの道の駅や物産館などで、このタケノコの瓶詰めの値札をご覧いただくとよろしい。
きっと貴方は見なかったことにして、素早く瓶を棚に戻さなくてはならない。
北信濃ではこの宝物のような身は、鯖の缶詰と一緒に味噌汁の具になったり、焼かれたり、揚げられたり、煮られたり、なかなか忙しそうである。
この一椀のために、どれだけの洗濯物が山積みになったことだろうか。
どれだけの血と汗が流されたことだろうか。
加えて万一の場合、捜索には少なからず人手と公金が投入されるのである。
事の発端はたかがタケノコごときである。
(聞くところによれば、たかが岩魚でもしばしば似たような事例が起きるそうである。)
これほど費用対効果(今の若い人たちはコスパなどと言うようであるが)の低い食材が他にあるだろうか。
さて、僕自身は理不尽に思いながらも人様には言えない深いワケがあって、衰え始めた身体に鞭を打ちつつ、毎年のように笹薮に入らなければならない。
そこがまた、並の笹薮じゃない。
人生、時には一人で抱え込まなければならないことがある。
この藪漕ぎは欲や道楽ではない。
溪屋としての矜持である。
先達の恩恵を無にしてはならない。
これを怠ったり、人任せにするような根性では溪屋失格である。
岩魚はタダでは釣れないのである。
ほら、これほどに素晴らしい体高の此奴等が「来るなら来てみろ。」などと言う。

その忌々しいタケノコで一杯。
年に一度ぐらいは・・・。
2017年07月03日
キャスティングが覚束ない梅雨時の釣り師・松並木と平日の温泉
先月、Sさん愛用のRPL+を少し振ってみたところ、キャスティングの体を成していなかったので、気休め程度にしかならないにしても、雨の合間をみて少しばかり練習をした。
道具のせいにしてはいけないのだけれど、RPL+はイヤなサオだと思う。
RPLとは全く違う。
自身の欠点ばかりを目の前に並べられたように思える。
「そんなに違わないヨ、弘法筆を選ばずだヨ。」
そんな天の声が聞こえてきそうではあるが。
今が本番なのにこんなことでいいのだろうか。
日々の努力を怠ると僕のような人間になってしまうのである。
さて、久し振りに通った中山道の笠取峠の松並木。
仕事を手早く(効率良く)片付けて、塩名田宿で件の素晴らしい油揚げを買った後の道中である。

若い頃に通った時より、ずいぶん赤松の木が少なくなってしまった。
その昔には峠越えの旅人が、笠を取って見上げたほどに立派な松並木だったことになっているけれど、今は少しばかり痛々しく見える。
道草ついでに静かな温泉場の共同浴場まで足をのばしてみる。
仕事中に浸かる温泉は達成感が違う。

平日ではあるけれど、通りにはまったく人影がない。
番台は留守である。
どうしようか。
常連らしいおっさんに教わって賽銭箱のような木箱に湯銭を入れる。
ちょうど先客が浴室から出るところで、湯船は僕の独り占めになった。

梅雨時だから少し日が差すと蒸してくる。
お寺の境内に木陰を見つけて汗を引かせる。

職場に戻ったらそそくさと仕事を片付けよう。
帰ったら毛鉤を巻こう。
キャスティングの腕を棚に上げておきながら、溪が気になる平日の釣師。
道具のせいにしてはいけないのだけれど、RPL+はイヤなサオだと思う。
RPLとは全く違う。
自身の欠点ばかりを目の前に並べられたように思える。
「そんなに違わないヨ、弘法筆を選ばずだヨ。」
そんな天の声が聞こえてきそうではあるが。
今が本番なのにこんなことでいいのだろうか。
日々の努力を怠ると僕のような人間になってしまうのである。
さて、久し振りに通った中山道の笠取峠の松並木。
仕事を手早く(効率良く)片付けて、塩名田宿で件の素晴らしい油揚げを買った後の道中である。
若い頃に通った時より、ずいぶん赤松の木が少なくなってしまった。
その昔には峠越えの旅人が、笠を取って見上げたほどに立派な松並木だったことになっているけれど、今は少しばかり痛々しく見える。
道草ついでに静かな温泉場の共同浴場まで足をのばしてみる。
仕事中に浸かる温泉は達成感が違う。
平日ではあるけれど、通りにはまったく人影がない。
番台は留守である。
どうしようか。
常連らしいおっさんに教わって賽銭箱のような木箱に湯銭を入れる。
ちょうど先客が浴室から出るところで、湯船は僕の独り占めになった。
梅雨時だから少し日が差すと蒸してくる。
お寺の境内に木陰を見つけて汗を引かせる。
職場に戻ったらそそくさと仕事を片付けよう。
帰ったら毛鉤を巻こう。
キャスティングの腕を棚に上げておきながら、溪が気になる平日の釣師。