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2018年10月30日

今年は菅平高原 来年は東館山

無駄にしてはバチが当たりそうなこの休日の晴天。

菅平高原に出掛けてきたのは、僕が四阿山や根子岳に登るわけではなく、離れて暮らす老母から久しぶりに山の空気を味わいに連れて行ってほしいと頼まれていたからである。





老母の年を考えると、この類の約束は果たせるときに果たしておかないと、万一の場合に後味の悪い後悔が残るかもしれないのである。
この秋晴れを見逃してはならない。




ゆるゆると歩きながら、老母は昔に登った山々を眺めて当時を思い出しているようである。









さらに、来年の夏は東館山でお花畑だそうである。
まあいい。
志賀高原の案内ぐらい造作も無い。

もしもの時にはあれやこれやという注文に生返事で頷きながら、つい来年の山歩きの予約を承ってしまった。
放蕩息子にとってはどこかこそばゆい。


  


Posted by SFM at 21:47Comments(0)釣り師の日常

2018年10月27日

セメダインでウェーダーの補修

ブーツフットのウェーダーは、履いたり脱いだりがとても楽だから、なかなか手放せないのだけれど、ブーツと布の境目がどうにも痛みやすい。

僕は俗社会では人にアゴで使われているけれど、釣り場での靴使いはけっこう荒い方だと思う。

このウェーダーもさっそく繋ぎ目の布が捲れかけてきた。

水が滲みるウェーダーほど不快なものはないから、今のうちに補修しておかなければならない。


釣友のKONちゃんの言によれば、セメダインスーパーXは、アクアシールよりずっと値段は安いけれど、同じような使い方ができるそうである。

彼の発想や知識はとても豊富ではあるが、単なる思い付きで根拠が無い事柄も多分にあるから、導入にあたっては鵜呑みにせず、十分な検証が必要なのだけれど、先日トレッキングシューズの補修に使ってみたところ、火打山を往復しても問題が無かったから、セメダインスーパーXに関しては大丈夫そうである。



はっきり言って、お世辞にもきれいな仕上がりとは言えない。
さらに、不要なところにもくっつけたり、指先をベタベタにしちゃうあたり、ぶきっちょな男の生き様がここにある。

まあいい。
ウェーダーの見た目など、渓魚にとっては取るに足らぬことに違いない。
ここは耐久性重視なのである。

ナニをどうしたところで、真価が問われるのは釣り場である。


  


Posted by SFM at 20:37Comments(2)釣り師の日常

2018年10月22日

問答無用 晩秋の火打山

去年は登りそびれてしまった火打山が今回のお題である。

ここはなかなか天気が安定しないところだから、この休日の晴天を見逃してはならない。

火打山の裾野は広いから、それなりに長丁場になるけれど、道中は頗る開放的で、次々に眺望が変わるから、飽きることなく歩いていられるのである。

要するに、こんな毒気のある釣り師にとっても、ケチのつけどころが無い山なのである。


富士見平を過ぎるとこういう事になるのである。




速やかに高谷池を通過。






さて、天狗の庭である。
この池糖に映る逆さ火打ちがこの山行の核心であると僕は思う。

そのあたり、僕如きが撮る写真などではとてもお伝えできない。



さらに、ここはとりわけ高山植物が豊富なところでもある。
そうは言ってもこの季節。
けれど、花は散っても何とやら。
酒は古酒、女は年増。
初鰹より戻り鰹なのである。


ライチョウ平から山頂までの僅かなハイマツの中に、僅かなライチョウが生き残っていることになっている
通りかかるたび、いつか逢いたいと思いつつ、そう容易く逢えないのがこの山のライチョウなのである。





毎度の事ながら二回ぐらいだまされて山頂。




目ぼしいところを時計回りに。

妙高山、奥に麗しの志賀高原。




五地蔵山から高妻山と乙妻山。




天狗原山と金山、奥に後立山。




雨飾山。




焼山。




焼山だけに煙を吐かせておいていいのだろうか。






致し方なく煙草に火を点けたところ、忽ち僕の隣にはこの青年たちが集い、山頂の一角が臨時喫煙所になる。



今時の若い世代もそう捨てたもんじゃないと思わせられるのである。


ここで一人の某釣友を思う。
彼は活火山に劣らず、絶えず煙を燻らせている自称愛煙家であるけれど、とりわけ写真に関わる造詣が深いらしいのである。
彼ならこの眺望をどう切り取るのだろうか。


名残惜しいけれどいつかは下山しなければならない。




帰りの道中も、未練がましく逆さ火打に足を止める。





聞くところによると。
この御一行様は某地方都市に本社があり、某各種業界や某行政に大きな影響力を持つ某会社のグループで、山好きな社長サマを取り巻くための登山愛好会なのだそうである。



さらに聞くところによると。
山が好きであろうと嫌いであろうと、新入社員は強制的に参加が義務付けられているそうなのである。
一度前例を作ってしまうと、そうそう方針を変えられない見本がここにあるらしいのである。

さらにもう少しだけ踏み込んで聞くところによると。
ブルーのヘルメットを着用され、先頭から三人目あたりにおられる御仁が当の社長サマで、経験豊かな山の熟練者なのだそうであるが。
一人だけヘルメットを被るあたり、まさかとは思うが、万一の事故の際には新入社員を差し置いて、自分だけは生き残ろうと、そんな思惑がありはしないかと勘繰ってしまうのは毛鉤釣り師の悪い癖である。

敢えて多くは語るまい。






下山後の温泉は地元の人たちが利用する共同浴場。
ここは僕の好きな風呂場である。




さてさて。
お湯割りが沁みる季節。


  


Posted by SFM at 21:57Comments(2)トレッキング

2018年10月18日

釣り師の休日 魚も休日

禁漁からほぼ半月。
戸隠山をやった翌日。
今さら未練がましいのは重々承知の上であるけれど、この際アブラビレがあろうとなかろうと、誰彼構わずハリに掛けたいこの心情、そこはお察し頂けることと思う。

そこで、長年押し入れの中で惰眠を貪っていた我が身のようなスピニングロッドを叩き起こしつつ、このところ弊ブログのお馴染みになりつつあるB場ちゃんが暮らす人里を流れる川に連れて来てもらったのである。


黙々とキャストを繰り返すB場ちゃん。



努力家の釣り姿はこうでなきゃいけない。

こんな時、KONちゃんはくしゃみをしなければならない。


僕も覚束ない手つきで投げちゃ引きを何度も繰り返してみたけれど、掠ったのはこの二枚のウロコだけである。



多分ニゴイではないだろうか。


結局のところ、この日の生体反応はこれだけである。
アブラビレもへったくれもなくて、釣果はゼロなのである。
要するに、下手な鉄砲などいくら打ったところで掠りもしないことを思い知らなければならない。
けれど、喉元を過ぎれば熱さを忘れちゃうのも釣り師の特権であると僕は思う。

このカエルの仔はついさっきまでシマヘビの口の中にいたのだけれど、当のシマヘビが通りかかった僕たちに驚いて逃げる刹那、せっかくありついた御馳走を吐き出しちゃったのである。



巡り合わせとはこういう事でもある。


お昼ご飯は、少し足をのばして件の中華そば。



さっきのシマヘビには申し訳ないけれど、この一杯は釣果を補って余りある。

ときどき、気分を変えたいときは、レンゲに掬ったつゆにほんの一滴、酢をうって啜ってみると良かったりする。


これにて一件落着。

N井サン、ごめんなさい。
  


Posted by SFM at 20:10Comments(0)他の釣り

2018年10月15日

秋の戸隠山 蟻の塔渡りの妙味 蕎麦の香り

毎年同じような時期になると同じようなところを巡回しているようで、一向に進歩が見られない岩魚釣り師ではあるけれど、今年の戸隠山ではB場ちゃんが相方になってくれたのである。



単独行ばかりを何年も続けてきた釣り師などと一緒に山を歩いてくれるあたり、何とも得難い釣友ではないだろうか。




尾根筋を詰めて岩稜帯を回り込むと西岳と本院岳が見えてくる。




ここから楽しい鎖場がはじまる。



けれど鎖を信用しきってはいけない。



滅多に無いことだけれど、アンカーボルトというものは時には抜けるものであると思わなければならない。
釣り師というものは広い視野で目配りをしなければならない。
他人任せではいけないのである。


さて。
ここで真打ちの登場である。
世に悪名高い蟻の塔渡りがこれである。



さて、始めようか。



釣り師が二人、比類なき高度感を満喫する。
経験者にしか語れない快感がここにある。





渡り終えて八方睨。






正面に高妻山。




蟻の塔渡りを見下ろすと渋滞が始まって大層賑やかである。
時折聞こえてくる引き攣った奇声は社会的格差などお構いなしである。



これが高見の見物というものである。
釣り師冥利に尽きる。

少し歩き始めて振り返ると登山客が蟻のように見える。
この光景はここまで体を運んで来なければ見ることができない。




後は、ジグザグの稜線を歩いて、鞍部から沢筋を下るのだけれど、B場ちゃんは自称愛煙家であるから頻繁に煙草を喫う。



僕はなるべく煙草の本数を減らすことに腐心しているから、致し方なく副流煙で我慢する。





歩き進むごとに高妻山の見え方が変わる。




帯岩。




滑滝。




ムキタケ。





下山するといつも決まってお昼ご飯の時間である。

戸隠という山里は、神話、山岳信仰、杉並木、パワースポット、蕎麦、民芸品、忍者など、その類のものがいろいろあって、官民こぞって自認する一大観光地なのである。

息をするのもタダじゃないとまでは言わないけれど、要するにそういう事なのである。

そんな土地柄ではあるけれど、この蕎麦店は頗る良心的であるから、心安く暖簾をくぐり、時には人様が打った蕎麦を手繰ってみるのも一興かと思わせられるのである。








蕎麦湯を飲み終えた後は、昼下がりの温泉に浸かって僕たちの山行が完成する。


他に足りないものは何だろうか。
これに決まっているじゃないか。


  


Posted by SFM at 19:59Comments(2)トレッキング

2018年10月12日

キノコと命 どっちが大事

今年はキノコの出が良くて、したがってキノコ採り師の遭難が多く、不運なことに物言わぬ人になる件数も近年に無く多発しているようである。

TVのニュース番組ではその筋の専門家が、キノコとご自分の命とどちらが大切か考えてくださいと呼びかけているのである。




とりわけ高齢者が単独で、あるいはごく少人数で入山するケースが目立つそうである。

単独でというところがミソではないかと僕は思う。

僕はキノコに関しては素人に毛が生えた程度の岩魚釣り師であるけれど、分野を問わず、穴場に関わることは口の堅きこと蛤の如く、口が裂けても他言しない心情は良くわかる。

家族にも教えずに、墓の中まで何とやらという決意も少しぐらいはわかる気がする。

むしろ、嬉しくなっちゃって、ついペラペラと穴場を漏洩しちゃうような口が羽根より軽い手合いよりも、人としての信頼性は格段に上であると思うところである。
老後が明るいか暗いかは別としてであるが。

お裾分けのキノコを貰うときに、どこで採ったのと訊くのは無粋だと思うし、素人を引き連れたキノコ狩りや渓流釣りの案内人のような生業を快く思うことは僕には出来ない。


数年前であるが、こんな僕でも偶然に舞茸を一株見つけたことがある。



舞い上がりはしなかったけれど、舞いたくなる気持ちはよくわかる。


けれど、どれほどに腕利きであっても、キノコ採り師や渓流釣り師というものは、遭難したり死んだりしたときは、家族や捜索関係者にとって、人騒がせで困った人になっちゃうのである。

お気の毒ではあるけれど、そういう事なのである。

加えて、口の堅さが強欲の裏返しと思われるあたり、俗世間の風当たりというものは、殊のほかに冷ややかであるから浮かばれないのではないだろうか。
  


Posted by SFM at 19:59Comments(0)釣り師の日常

2018年10月09日

岩菅山の避難小屋 

岩菅山は立地が良くて、天気がいいと眺めたい山をほとんど眺めることができるのだけれど、この日の山頂は霧雨で何も見えない。



けれど、訳あってこの山に限っては、足を向けて寝たり、悪態をつくことは僕にはできない。


この悪条件は天気予報を鵜呑みにした僕の不徳の致すところである。
他人に責任転嫁をするようでは釣り師失格である。

ここから裏岩菅山への快適な稜線歩きを楽しみにしていたのだけれど、潔く諦めた方が得策である。
そうなると時間はたっぷりとあるから山頂にある避難小屋で暫し過ごすことにする。



僕は遭難者ではないから、ここを避難小屋と呼ぶのは適切ではない。
雨風を凌げる寛ぎの空間なのである。



霧雨は止みそうに無い。
時にはこうして、人知れずボーっと生きていてもいいのではないだろうか。




頃合いを見計って、覚悟が決まったら霧雨に耐えながら来た道を下ればいい。




滅多に無いことだけれど、僕がたまに吐く毒などはこのキノコの足元にとても及ばない。




さて、温泉に入れば大抵のことは丸く収まるものであるが。

やれやれ。
TV番組では、取るに足らない些細なことで架空の人物に激怒させている。
ボーっと生きていることがそれほどいけないことなのだろうか。

どれ。
TVなど消してしまおう。





  


Posted by SFM at 20:37Comments(0)トレッキング

2018年10月06日

フライラインのループには人の心が表れる

禁漁になると僕は覇気が抜けたようになる。
そんな時、芝生の上でキャスティングの練習をしていると、よしなし事が心に移りゆくものである。





はっきり言えば雑念であるが、不得手なPCなどに向かいてそこはかとなく書きつくれば以下のとおりである。


「芝生の上には魚はいないよ。」
道行く人などに言われなくても、それぐらい僕にもわかる。
愛想よく受け答えをしてはいるけれど、はっきり言って余計なお世話なのである。

けれど、僕はサオを振らなければならない。


「初心者でもとりあえず魚は釣れます。
キャスティングが未熟でも心配はいりません。
美しい溪魚たちが貴方を待っていますよ。
さあ、始めてみましょう。」

一時期、そのような耳障りのいい甘言に、ついその気になっちゃった善男善女は少なくなかったことと思うが、問題の核心を曖昧にした業界の商業戦略であったとすれば入門者の定着率が低いのは当たり前である。

僕などが偉そうな事を言えた筋合いではないけれど、その程度で美しい溪魚たちや瀬戸際の溪魚たちが釣れていれば、僕はこの年になってまで芝生の上でキャスティングなどをしているわけがない。


ノーマンマクリーンが描いた世界のように、そうそう慈悲深い釣り場というものは、少なくとも僕には心当たりが無い。

これを初心者に続けろと言う方が酷というものである。

友人知人をこの釣りに引き込んだ諸氏におかれては相当に責任が重い。
大切な友人が一通りのキャスティングを出来るように根気良く寄り添い、尽力しなければならない。
まさかとは思うが、人様を誘った張本人が出来ませんでは本末転倒と言わざるを得ない。

などと、そのような事はあまり人様の前では言わない方がよろしい。
物事の核心というものは、おおよそ身も蓋も無いものであるから、言及してしまうと、時に品格を問われることになる。



僕自身、いつになっても求める境地には到達できないのがフライキャスティング。
要するに鏡花水月なのである。
けれど、妥協をした時点で人として終わりである。

永遠に幸せになりたかったら釣りを覚えなさいとは言うけれど、そこは表裏一体。
永遠なる不幸の始まりでもあると僕は思うよ。



一時間幸せになりたかったら酒を飲みなさい、と。
これだけは。
まず間違いない。
  


Posted by SFM at 21:09Comments(4)釣り師の日常