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2018年07月29日

貧乏人は麦を食え

暫くぶりに天気が崩れる。
台風の影響である。


小雨の中を釣るのは体に堪えるけれど、渓魚の機嫌はそう悪くない。









これは本意ではないが、致し方ないところである。
釣りというものは数年後まで見据えなければならないから、粗末にしては罰が当たる。




この日の相方。
B場ちゃんはモクモクの実の能力者である。



見ていると、釣りの合間に煙草を喫うと言うよりも、煙草を喫う合間に岩魚を釣っているのではないかと思えてくる。




ちなみに僕はソバソバの実の能力の覚醒者であり、見聞色の覇気を多用する。



台風の接近にも拘わらず、早々と雨が上がり、陽が差す。

岩魚の食いが止まってこの日の釣りはお開きである。







本題はここからである。

「貧乏人は麦を食え。」
面と向かって言われたことはないけれど、日頃からぞんざいに扱われている貧乏人としては、丑の日に鰻を買い求めることはとてもできない。

鰻を釣る技術を備えていればいいのだけれど、渓魚を釣るぐらいしか僕には能が無い。

そこでこの日、釣った岩魚を大事にとっておいて、拙い手並みながら蒲焼風に仕立ててみたのであるが。



さあ、おあがりよ。




見た目はどうにも今一つであるが、肝心の味はどうであるか。

渓魚をとりまく環境を思うにつけ、口の軽い手合いには教えない方がよろしい。
誰もが等しく食べていいものではなくて、寡黙に生きる貧乏人だけに許された味であると僕は思いたい。

合わせるべきは第三のビールではないだろうか。

お粗末!



  


2018年07月23日

熱中症の尺岩魚

猛暑が続き、雨は半月以上降っていない。

溪魚の活性など期待するだけ野暮であるが、ついつい出掛けてきちゃったのは溪の木陰で涼みたかったからである。

さて。
付き場はわかったし、全く出ないわけでもない。
けれど、食わせ切れなかったり、乗せられなかったり、そんなことの繰り返しである。

こんな時、毛鉤釣り師としては、この釣りのハードルの高さを愉しめなければならないことになっている。


どうにかこうにかご覧のとおり。






これを掛けるつもりは無かった。
不徳の致すところである。




ここでこの日の主役が登場する。
小さな毛鉤をゆらりと食った尺上岩魚である。



ここで暫し思案である。
もう店仕舞いにしてもいいんじゃないだろうか。



余談であるが、煙草の本数を減らして久しいけれど、減らすほどに一服というものは旨い。
限りなくゼロに近付けても、ゼロにはならないところが物事の理というものではないだろうか。


さて、少しばかり気持ちにゆとりができたこの時こそが、この釣りのハードルの高さを愉しむには最適なのではないだろうか。

良型を追加。






沢筋の友、うっかり踏み潰さなくてよかった。








浴場の窓の外に咲いたヤマユリの花。
ヒグラシの鳴き声は写真に撮れない。






速やかにビールを流し込んだ後は、よく冷えた生酒をゆるゆると。



天ぷらにはこのカレー味の塩がとてもいい。
けれど、近々底をつくのが悩ましい。

  


2018年07月21日

狂気の祭典 東京五輪 飛んで火に入る夏の虫

さて、再来年の今頃。
これほどに暑い季節に、これほどに暑い国で、わざわざオリンピックを開催しなければならないことになっている。

「もっと涼しい季節に、涼しい国でおやりなさい。
どこでもいいから。
ぜひ、そうしなさいよ。」
などと、ついつい思っちゃうのは僕だけだろうか。


開催期間中の東京では十中八九、焦熱地獄の「お・も・て・な・し」が待っている。
余談であるが、オモテが無いということは、ウラがあると思わなくてはならない。

「飛んで火に入る夏の虫。」
つい・・・。
想像しちゃう。


画像はイメージです。


お世辞にも正気の沙汰とは言い難い。
はっきり言えば、気○いの沙汰である。
いやいや、ひょっとして地獄の沙汰もカネ次第かもネ。

善男善女たちが命をかける苦行の果ては極楽浄土と思いたいところであるが、この業界を取り巻く環境は、どうにもこうにもカネ次第のようであるヨ。

その実、裏でしっかりと儲けた筋におかれては、暑くて熱い開催地を尻目に、快適な避暑地で何とも品の悪い笑みを浮かべるに違いない。

うまくいった暁には、僕にも少しばかり分けて頂くワケにはいきませんかネ。

僕などは、どう逆立ちしたところで儲ける側になどなれるワケもなく、せいぜい溪魚を釣るぐらいしか能が無いから、世界中が暑い東京に熱い視線を向けている間隙を突いて、人知れず涼しそうな沢筋などを、今のうちから模索しておかなければならない。

こう見えても岩魚釣り師は忙しい。




釣り師というものは毛鉤を巻く側である。
コマセに寄せられたり疑似餌に食いつくのは、世に数多の気のいいサカナたちに任せておけばよろしい。

「一網打尽・・・」
ついつい、また想像しちゃった。


くれぐれも、どこかの冬季五輪開催都市みたいに、招致活動費の帳簿を焼き捨てたりしちゃダメだヨ。

  


Posted by SFM at 20:32Comments(0)釣り師の日常

2018年07月19日

仕事中の温泉

連日猛暑が続くのに一滴の夕立も降らない。

年を追うごとに酷くなる暴力的な暑さと局地的豪雨は、どうにも人災のように僕には思えてしまう。
回ってきたツケ。
納めてこなかった年貢。


それはさておき。
などと言っている場合ではないのだけれど、僕にとって無くてはならないのがこの温泉である。


実に身勝手な言い分ではあるけれど、楽しいばかりが釣りじゃない。
ときに苦しくもある。

このお湯に何度救われたことだろうか。

平日の昼下がりに仕事を抜け出して。
たまには。



嗚呼。
何も言えない。

アブラゼミには静粛に願いたいところであるが、僕は仕事をサボって風呂に入る釣り師である。
そうそう偉そうなことを言えた筋合いではない。


この季節。
度数高めはありがたい。



  


Posted by SFM at 20:51Comments(2)釣り師の日常

2018年07月15日

釣り師は夏バテ 岩魚も夏バテ

さて、猛暑日。
陽当りの悪い沢筋に入り込むぐらいしか僕には能が無い。

このところの暑さにあてられて、よろよろと水辺を歩く。

岩魚たちも深みに付いていて、ふらふらとだらしない出方をする。

食わせきれなかったり、掛かりが浅くてバレたり、そんなことの繰り返しである。

どうにも息が合わないと言うか、歯車が噛み合わないと言うか、ボタンのかけ違えとはこういうことではないだろうか。

釣り師はよろよろ、岩魚はふらふら、何だかイヤになっちゃう。

それでも掛けた時の引きは強い。
そこは夏岩魚の実力である。












沢水や 蛙飛び込む 水の音。



この蛙は水音を立てなかったのであるが。









帰りの道中、クマの仔が林道を横切る。



浴場の窓を開けるとヒグラシの声。




さて、夏バテした釣り師ににつける薬。



僕にはこれぐらいしか思いつかない。


  


2018年07月08日

釣果の無いフライフィッシング

ここは以前に足繁く通った川である。

ところが、けっこう山奥にも拘らず入渓が容易なせいか、近年ではすっかり売れっ子になっちゃって、大勢の釣り客が揃って上流を向いて数珠繋ぎになることも度々なのである。

岩魚は豊富に棲んでいても、釣りにくくなるのは当たり前である。

そんなこともあって、僕の足は自然に遠のいた。

そうは言いつつも、この川の潜在能力はやはり健在である。






いつの日か、源流行の足取りが覚束なくなったときに、僕が帰って来るところは多分この川だと思う。

手頃な石に腰掛けて、若い釣り師たちに笑顔で先を譲る。
頃合いをみて、重くなった腰を上げ、サオ抜けした木っ端岩魚をヒラヒラと釣る。

そんな老釣り師に僕はなる・・・予定なのである。




さて、大口を叩いておきながら、この日の釣果はゼロである。

今年の梅雨明けは早すぎた。
そこで、長雨の後の増水を当て込んで出掛けてきたのであるが、平水のままである。
期待は外れた。

相方のB場ちゃんにも岩魚は釣れなかった。




フライロッドは渓魚を掛けるための道具である。
ただ振り回していればいいってもんじゃないのであるよ。
恥ずかしながら、この日の僕には無用の長物と言わざるを得ない。




まあいい。
たまに帰ってきた放蕩息子がそう長居をするもんじゃない。
いずれ、またお呼びがかかる。
こんな時は早めに立ち去るに限る。


差し当たり、温泉とビールがあればどうにでもなる。








今回の大雨で被害に遭われた皆様におかれましては、心よりお見舞いを申し上げます。
  


2018年07月02日

源流王の溪 夏岩魚を淡々と釣る  

釣った岩魚の数をいちいち数えていると、そのうちにワケがわからなくなってきて、仕舞いにはバカらしくなってくる。
この溪で釣果などを気に掛けつつ釣りをするのは無意味である。

釣りたいだけ釣ればよろしい。
あまり大きな声では言えないけれど、青天井である。







正直なところ、写真を撮る暇も惜しいくらいにこの釣りは忙しい。

人生には、そんな時があってもいいのではないだろうか。







釣って釣って釣りまくるというのは、どこか下品な言い回しに思えるけれど、実際にやってみるとそう悪いものでもない。
けれど、人様の前で放言などをいたすのは、大人の嗜みとしてはいかがなものかとも思う。










キャスティングやプレゼンテーションに、ちょっとしたコツがあるけれど、そのあたり、言葉ではうまく説明出来ない。
現地に体を運び、場数を踏むしかないのであるが、常人がこの溪に辿り着けるかどうか。

問題はそこである。

この溪は平等であるけれど、極めて現実的でもある。
俗社会の比ではない。
天国と地獄は紙一重である。
老若を問わず、岩魚釣り師の進退は消去法に委ねられると思わなければならない。
一時の愉悦と引き換えに、失ってはならないものを失う実例には事欠かない。

森羅万象をひっくるめて、寡黙で揺るぎない等価交換の理に、この岩魚たちは守られている。


そこまでして岩魚を釣らなければいけないのかと言われると、どうにも肩身が狭いところであるが、今、物理的にこの溪に立つことができる釣り師は僕だけである。

海賊王になるのが誰であろうと口を挟む筋合いではないけれど、この溪の源流王になったのはこの僕である。



この溪の岩魚は背肉のつき方が違う。
釣りの手を暫し休めて、魚体を手に取ってみるとよくわかる。








溪師の現役寿命は総じて短い。

僕が師事している先達は、この溪を拓き、かつ君臨したのであるが、あるとき円満に引退して、持てるものを気前良く僕に伝授した。
英雄の引き際はこうでなきゃいけない。

いずれ僕が身を引けば、この溪への人知れぬ経路は程無く塞がる。
人跡はきれいに消える。
溪は閉じる。
ざわめく万物の声の聞き手はいなくなる。


若い諸君、チャンスがあったら挑戦したまえ。
全てをそこに置いておく。
相応の覚悟が必要であるがね。
僕もそう長くはもたないよ。











持てる覇気を尽くし、満身創痍で帰り着く。







どんな釣り師でも、釣りのおしまいは、「ただいま」でなければならない。

僕にとっては一向にうだつの上がらない我が家ではあるけれど。


さて、乾杯。
少しばかり、上目遣いに。