2021年07月26日
人知れず源流岩魚を釣りまくる
テン場を設えたら岩魚を釣るぐらいしかやることがない。
降り立った渓谷はそのような場所である。

賛否両論は別として。
釣り場は誰の物でもないというのは建前であって、ここに限っては僕の物であるというのはここだけの話である。
何か手違いがあればその場で死ぬかもしれないけれど、諸事抜かり無く、わざわざ苦労してやってきたのは渓谷を独り占めするためである。
そのために僕はここに来た。
そのような場所柄であるから、釣り姿を人様に見られるようでは源流釣り師の恥である。


肝心なことはキャスティングの距離感。
着き場から適切に距離を取れば釣りたいだけ釣れて、近付けば殆ど釣れなくなる。


さらに。
いつまでも同じ場所で粘っていても無駄である。
駄目なものは駄目である。
この釣りに限って言えば、見切りが肝心であり、未練は禁物である。
人間関係においても、同じ相手と長く付き合っているとボロが出るから、そうなる前にさっさと別れて別の相手と付き合う。
要するにそういう事ではないだろうか。
テン場での食生活はご覧のとおりである。


すき焼きに使われている輸入牛肉は3割引であるからネギより安いのである。
盛大な火遊びはタダである。

今回の活性には少しばかりクセがあって、これぐらいの魚体を一匹得るためには、3匹以上の木っ端岩魚を釣らなければならない。

貴重な良型。

わざわざ測ったわけではないけれど、控えめなところで尺ぐらいはあると思いたい。
さて。
来るのも難儀なら帰りの道中もけっこう骨が折れる。骨折したわけではないけれど。

お世辞にも楽な釣りとは言い難い。
こんな苦労をしなければならないのは僕一人で十分である。
満身創痍で湯船に沈む。

風呂場の外はヒグラシの声。
降り立った渓谷はそのような場所である。
賛否両論は別として。
釣り場は誰の物でもないというのは建前であって、ここに限っては僕の物であるというのはここだけの話である。
何か手違いがあればその場で死ぬかもしれないけれど、諸事抜かり無く、わざわざ苦労してやってきたのは渓谷を独り占めするためである。
そのために僕はここに来た。
そのような場所柄であるから、釣り姿を人様に見られるようでは源流釣り師の恥である。
肝心なことはキャスティングの距離感。
着き場から適切に距離を取れば釣りたいだけ釣れて、近付けば殆ど釣れなくなる。
さらに。
いつまでも同じ場所で粘っていても無駄である。
駄目なものは駄目である。
この釣りに限って言えば、見切りが肝心であり、未練は禁物である。
人間関係においても、同じ相手と長く付き合っているとボロが出るから、そうなる前にさっさと別れて別の相手と付き合う。
要するにそういう事ではないだろうか。
テン場での食生活はご覧のとおりである。
すき焼きに使われている輸入牛肉は3割引であるからネギより安いのである。
盛大な火遊びはタダである。
今回の活性には少しばかりクセがあって、これぐらいの魚体を一匹得るためには、3匹以上の木っ端岩魚を釣らなければならない。
貴重な良型。
わざわざ測ったわけではないけれど、控えめなところで尺ぐらいはあると思いたい。
さて。
来るのも難儀なら帰りの道中もけっこう骨が折れる。骨折したわけではないけれど。
お世辞にも楽な釣りとは言い難い。
こんな苦労をしなければならないのは僕一人で十分である。
満身創痍で湯船に沈む。
風呂場の外はヒグラシの声。
2021年07月11日
岩魚を数える計算式
変異株。
線状降水帯。
梅雨が明けた暁には連日の酷暑。
我が祖国には、果敢に立ち向かったり、穏便にやり過ごしたりしなければならない事案が山積みである。
全国津々浦々に到るまで忙しく、且つしんどいのである。
ご他聞に洩れず、岩魚釣り師も忙しい。
上述の天災並びに人災はもとより、実家の野暮用、隣近所の役回り、その他諸々。
要するに、トーマス・バッハなどに構っているヒマは無いのである。
どうにか漕ぎつけた僅かばかりの釣行のチャンス。
雨上がり直後の流れは、ご覧のとおりけっこうな濁り具合である。

そこで、致し方なく手持ちの毛鉤をぐちゃぐちゃにして、流れに絡めて沈めてやると、どういうわけか三投目か四投目ぐらいで釣れてくる。
1匹目。

2匹目。

3匹目まではいいけれど。

4匹目からは、いちいち数えるのが面倒になって、どうでもよくなってきちゃうのは毎度のことである。

聞く所によると、オーストラリアではカンガルーなどを数えるのは3頭までで、4頭以上になると、「一杯いるよ。」ということになるらしいのである。
岩魚釣り師も「一杯釣れたよ。」で済ませたいところである。
一杯釣れればの話であるが。
まあいい。
さて。
氷河期以来、人の手を介さずに繁殖を繰り返してきた結果がこれである。

七寸程度の木っ端岩魚ながら、痩せても枯れても天然岩魚である。
などと、わざわざ取り上げたのはワケがあって、秋口に産卵活動に初参加するのがこのあたりからということになっている。
仮に、この岩魚が翌年に10匹程度の稚魚の増殖に寄与するとして、その子孫がネズミ講式に増殖するとしたらどうなるだろうか。
一年後には10匹。
二年後には100匹。
三年後には1000匹。
理屈か屁理屈かは別として。
今、この時。この木っ端岩魚を死なせてしまうと、数年後に大繁殖する予定の莫大な水産資源を失うことになるらしいのである。
この計算式に基づいて、5年後あたりの数値を目安に、開発関係者や密漁者を相手に多額の補償金の支払いを持ち掛けたらしい某おっさんは既にこの世の人では無くなって久しい。
けれど、いまだにごく一部の信者からは、川の守護神の如く奉られているフシも無いわけではなさそうであるが、見えないところで動くカネの匂いには殊更に敏感だったに違いないと、つい思っちゃうのは僕の私見である。


線状降水帯。
梅雨が明けた暁には連日の酷暑。
我が祖国には、果敢に立ち向かったり、穏便にやり過ごしたりしなければならない事案が山積みである。
全国津々浦々に到るまで忙しく、且つしんどいのである。
ご他聞に洩れず、岩魚釣り師も忙しい。
上述の天災並びに人災はもとより、実家の野暮用、隣近所の役回り、その他諸々。
要するに、トーマス・バッハなどに構っているヒマは無いのである。
どうにか漕ぎつけた僅かばかりの釣行のチャンス。
雨上がり直後の流れは、ご覧のとおりけっこうな濁り具合である。
そこで、致し方なく手持ちの毛鉤をぐちゃぐちゃにして、流れに絡めて沈めてやると、どういうわけか三投目か四投目ぐらいで釣れてくる。
1匹目。
2匹目。
3匹目まではいいけれど。
4匹目からは、いちいち数えるのが面倒になって、どうでもよくなってきちゃうのは毎度のことである。
聞く所によると、オーストラリアではカンガルーなどを数えるのは3頭までで、4頭以上になると、「一杯いるよ。」ということになるらしいのである。
岩魚釣り師も「一杯釣れたよ。」で済ませたいところである。
一杯釣れればの話であるが。
まあいい。
さて。
氷河期以来、人の手を介さずに繁殖を繰り返してきた結果がこれである。
七寸程度の木っ端岩魚ながら、痩せても枯れても天然岩魚である。
などと、わざわざ取り上げたのはワケがあって、秋口に産卵活動に初参加するのがこのあたりからということになっている。
仮に、この岩魚が翌年に10匹程度の稚魚の増殖に寄与するとして、その子孫がネズミ講式に増殖するとしたらどうなるだろうか。
一年後には10匹。
二年後には100匹。
三年後には1000匹。
理屈か屁理屈かは別として。
今、この時。この木っ端岩魚を死なせてしまうと、数年後に大繁殖する予定の莫大な水産資源を失うことになるらしいのである。
この計算式に基づいて、5年後あたりの数値を目安に、開発関係者や密漁者を相手に多額の補償金の支払いを持ち掛けたらしい某おっさんは既にこの世の人では無くなって久しい。
けれど、いまだにごく一部の信者からは、川の守護神の如く奉られているフシも無いわけではなさそうであるが、見えないところで動くカネの匂いには殊更に敏感だったに違いないと、つい思っちゃうのは僕の私見である。