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2019年05月29日

人知れずWDシューズを補修する

綻びというものは小さなうちに補修するに越したことはない。
人生に通じるものがありはしないか。
気付いた時にはもう遅い。

せめて靴底ぐらいは。




毎度のことながら不細工な仕上がりである。
まあいい。
人生の谷底に耐え得る強度があればよろしい。
どのみち人様に足元を見られるわけではない。
寧ろ、迂闊に釣り姿を見られるようでは岩魚釣り師としては不適格である。


ついでに言うと。
靴に限ったことではないけれど、僕の風貌はアウトドア業界のアパレル部門が繰り出すお洒落な面影などは微塵も無い。
人前に出すのは如何なものか。


さて、WDシューズというものはそうそう頻繁に手入れをしなくてはならないものだろうか。

大方の靴はさほど酷使に耐えるように出来ていなくて、どれをとってもそのあたりの大差は無いと僕は思う。

唯一、登山靴の製造元で作っている沢靴はそうそう壊れることはないから源流行に頼りになる。


年毎に怪しくなる足取り。
けれど、今更ながら溪ぐらいしか出掛けて行くところが僕には無い。

せめて靴底ぐらいは。



  


Posted by SFM at 19:56Comments(0)釣り師の日常

2019年05月25日

岩魚の機嫌は今一つ

非常識極まりない五月の猛暑日。

重要な事案は新緑の溪であり、要するに岩魚の活性なのである。
ドナルド・トランプなどこの際どうでもよろしい。

残雪を残しながらの猛暑であるから、つい期待しちゃうのが人情というものである。


ざっと見渡したところ、目立つのはコカゲロウであるが、飛んでいる虫に惑わされてはならない。

さて、水面下の実情はどうであろうか。







サイトフィッシングと言えば聞こえはいいけれど、水溜まりのようなところでふらついているような中途半端な岩魚の鼻先を毛鉤で不自然に叩いて反射食いをさせる。
はっきり言ってセコイ釣り方である。








ほんの一時だけハルゼミが鳴く。
次回に向けて高まる期待は毎度のことである。










その頃、田植えに勤しんでいるB場ちゃんは誠実な釣友である。
彼が入渓する頃にはきっと良い出方をするに違いない。




  


2019年05月20日

岩魚の機嫌は頗る悪い

水量は治まった。
水温も悪くない。
けれど上流から吹き下ろす爽やかな風、これが曲者である。
そこに輪をかけるのが僕の腕。




底に張り付いたヤツには何をやっても無駄である。
白泡の下に沈んだヤツは底意地悪く毛鉤を弾く。


やれ、こんな時の釣果はありがたい。






現代社会、釣行の朝にコンビニに立ち寄るのは当たり前になってしまったけれど、渓流釣りを始めた頃に釜に残っていた冷や飯を不器用に丸めて出掛けたことが懐かしい。



そもそも食べ物を粗末にすることで成り立ってきたビジネスモデルである。
食品ロスに対する改善に期待したいところである。


さて、そうそう岩魚ばかりに構ってもいられない。


僕の好物であるが、共喰いである。



山菜というものは下処理の手間を考えなければならない。
ただ採ればいいってもんじゃないのである。







師が持たせてくれた塩辛とナガラミという煮貝。



カンパチのカマの一夜干しは明日のお楽しみ。

  


2019年05月15日

さて、釣りを始めようか

このオフロードバイクは溪魚を釣るための単車。
所有権を持っているのは師であるが、使用権の九分九厘が僕にはある。



これが物置から出されると僕は釣りに行かなければならない。

クルマ横付けは確かに楽であるが、持って生まれた苦労性。

同世代の釣友が生まれて間も無い孫を相手に戯れている頃、僕がこの単車で乗り付けるのは人生の谷底である。
けれど、僕には溪ぐらいしか行くところが無い。

魚影は薄いより濃いに越したことはないと思うのはお互い様。
せっかく泥棒に入るのであればカネのある家に入るべきではないだろうか。
要するにそういうことなのである。


山桜、山ウド、ハルゼミ、カジカガエル。
状況証拠は時間の問題。

さて。
著しく品に欠ける僕の顔つきを人前に出すのはいかがなものか。
誰もいない溪で人知れず笑みを浮かべればよろしい。


  


Posted by SFM at 21:03Comments(0)釣り師の日常

2019年05月10日

取材をされたら釣り場は終わる

その昔、ある知人が致し方なく釣り雑誌の取材を引き受けたことがある。

編集作業を経て記事が掲載されたのは翌年。
川は観光地になり、大挙して押し寄せた釣り人は観光客になって溪魚を沈黙させた。



聞いた話を思い出す。
あるときのウォール街、靴磨きの少年が腕利きの相場師に「今、この株を買えば上がるよ。」と勧めたそうである。
相場師は「靴磨きの少年が株の話を始めたら相場は終わりだ。」と、所有銘柄を急いで売り払ったところ、間もなく大恐慌が起きたそうである。


出版社や映像コンテンツ制作会社の最終目的は自社の営利である。
一方、貧果にはとことん耐えてしまうのが釣り師であるから、雑誌の記事、動画の配信、スクールなどの催しは入溪を避けるべき釣り場を示唆する指標として有効であると僕は思う。

縁あって訪ねた釣り場で、以前は良かったと言われても差し当たり返す言葉は無い。



ついでに言うと。
「残された秘境」とか「最後の聖地」などいう見出しにはよくよく注意してかからなければならない。

美しい溪相は物理的な産物である。
仮に溪魚がいたとして、分け隔てなく恩恵があるだろうか。
秘境や聖地が気前良く分け前をくれる保証は無い。



秘境では野宿が不可欠であるが、快適なオートキャンプ場とは根本的に違う。
数日間の遡行中、好天に恵まれ続けることはまれである。
雨が降れば増水する。
電気も無ければガスも無い。
スマートフォンは何も答えてくれない。
年毎に樹木は育ち、地形は変わる。
行程を違えると遭難したり死んだりする。
程度の差はあれ、その手の溪の藻屑はけっこういる。

さて、夢を追いたければ行ってみればよろしい。
きれいに作られた誌面や動画は氷山の一角と思っておけば間違いない。
ある意味では、生涯忘れられない貴重な経験が得られるのではないだろうか。

余談であるが、人間の心理というものは、得る喜びよりも失う苦痛や恐怖をより強く認識するように出来ているそうである。


  


Posted by SFM at 22:05Comments(2)釣り師の日常

2019年05月07日

ミミズで岩魚を釣る毛鉤釣り師

初夏の陽気。
活気に満ち溢れた群衆心理は各地で混雑や交通渋滞を発生させているようであるが、その不自由さは加担した当事者諸氏に起因すると考えるのが物事の筋というものである。

釣り場での溜息も案外そのあたりが核心ではないだろうか。

敢えて多くは語るまい。

一方、僕たちが出向いた渓筋には幸い人影が無い。
ご覧のとおりの雪深さ。
ここはまだ早春。






お目当ての新芽はほんの出始め。
嬉々として摘むほどではないけれど、先を思えばどこか嬉しい。




岩魚たちは達者で暮らしていただろうか。

こんなこともあろうかとミミズを持って来たのである。

こう見えても僕は餌釣りだって出来るのであるよ。








年月が経つと仕事の手順や交際相手の詳細などは忘れるものであるが、釣りの記憶とういうものはどこかに引っ掛かっているものである。
そう言いつつ、老眼鏡が無いとミミズのチョン掛けが出来なくなったことは、毛鉤のアイに糸を通す時と同じであると改めて実感するのである。

魚体やサビの具合から見えてくるのは少し先の未来である。


前日に畑を掘ってミミズを用意してくれたB場ちゃん。




一掴みの新芽がみそ味のカップ麺を覚醒させる。




昼下がりの湯けむり。




旬のコシアブラから一転してフキノトウ。
ふと、季節が逆戻りしたような、少しばかり身勝手な釣り師の錯覚。




連休の締めはささやか過ぎる特権。



  


Posted by SFM at 19:38Comments(2)他の釣り

2019年05月04日

釣り師の準備運動 上信国境 四阿山

自堕落な日々。
時には体に負荷をかけなければならない。

そういうわけでこの日、取って付けたように登ることにしたのが四阿山である。


登山道に取り付いたところ、程無くして見つけたのがこの雉である。



雉も鳴かずば撃たれまいとは言うけれど、そこはお生憎様。
鳴こうが鳴くまいが見つけちゃうのが釣り師というものである。
そう言いつつ、この雉は運良く写真を撮られただけで済んだのである。

ここで雉に出会ったのは何かの縁。

余談であるが。
万一、山中でやむを得ず会心のキジ撃ちを終えた瞬間、チリ紙の持ち合わせが無いと気付いた時の心情はどうであろうか。

そんな万一の衝撃的な顛末が詳しく記された某氏の投稿記事。
出掛けにふと目を通したのが年貢の納め時。
つい、ここで思い出しちゃったのである。

https://saiougauma.naturum.ne.jp/e3220065.html

一羽の雉が記憶の呼び水になるこの刹那。
残雪を歩く春山の一日。
時折、キジ撃ちに思いを巡らせることになるであろう予感。
敢えて多くは語るまい。



さて、このあたりから装着した軽アイゼンが良い仕事をする。
足元でシャクシャクと雪を咬む音が心地良い。




あまり好きではない飴玉を厭々ながらしゃぶり、ペース配分や効果的な水分の摂取などを考えながら黙々と雪の上を歩くのである。






山頂。








周囲の山並みを眺め、溪筋の残雪を推し量る。
快哉を叫ぶだけではいけないのである。







浅間山は活火山である。



煙を吐くのは構わないけれど、呪いを吐いてはならない。
釣り師とはそういうものである。
ついでに言うと。
毒を吐くのは時と場合、相手によりけりではないだろうか。



この山には鼻曲山という珍しい名前がつけられている。



ここにいるのはへそ曲がりの釣り師である。



さて、これからもう一仕事しなければならない。




下りは一瞬、登り返しは数十分。



菅平は風の通り道のようなところだけれど、この大すきまと呼ばれている鞍部はいつ来ても隔離されたように風が穏やかなのである。


もう一つの山頂。





あとはお決まりのパターンである。




前日に師が持たせてくれた信州サーモンと信州大王イワナの腹身。





  


Posted by SFM at 16:28Comments(2)トレッキング

2019年05月02日

試し釣りの結末

画像ではわかりにくいけれど、ここはけっこうな薮沢。
釣れる魚の大半は合わせが強いと手前に飛んで来ちゃうような木っ端岩魚である。
箸置きやアクセサリーの類をイメージすればよろしい。

先月、KONちゃんとB場ちゃんがここで初釣りを済ませているが、察するところ、サオをしならせるほどの魚体では無かったに違いない。


この日。
朝から降り続く雨。
こんな日にわざわざ出掛けて行く釣り師がいたらお利口さんとは言い難い。

身体には堪えるけれど、試し釣りにはちょうどいいのではないだろうか。

車は一台も停まっておらず、思惑通りである。


さて、肝心の試し釣りはどうであろうか。








逆転の発想とか、状況証拠の積み重ねなどと偉そうなセリフを吐いておきながらこの日の釣果はゼロである。
釣り師として不徳の致すところである。

要するに、スレた釣り師が行き着くのはせいぜいそんなところである。


小雨に耐え、背中を丸めながらお昼ご飯。



このところ、働き方を含めてコンビニ業界の在り方が問われているようであるが、この食料品はコンビニではなくスーパーで買ってきたものである。

カップ麺が89円、おにぎりが一つ59円。
合計で税別266円だから、おおよそコンビニの半値である。

元号が変わったところで僕の懐具合が変わるわけではない。
それが現実である。






さて。
この温泉の開湯にあたっては福島正則が深く関わったことになっている。




詠み人は著名な俳人である。




一方、釣果に恵まれず、濡れ鼠のように這う這うの体で辿り着いた釣り師は廃人のようである。


そんな釣り師にも、このお湯は分け隔てなく平等である。