2022年06月29日
木っ端岩魚に弾かれて 尺岩魚には逃げられた
身体に堪える連日の暑さ。
聞けば予定外の梅雨明けらしい。
この類の急激な気候の変動は溪魚が機嫌を損ねる典型的なパターンである。
そうは言っても、何も釣れませんでしたでは済まされないのが岩魚釣り師の辛い人生。
案の定、寄ってくるのは木っ端岩魚。
保育士になっていれば、僕の人生はさぞ充実したものになっていたに違いない。



しかも、これだけ弾かれ続けた暁にはスレ掛かりでも贅沢を言える立場では無さそうである。



さて、事件というものは往々にしてこのような閉塞感の中で起きるものである。
ゆらりと出てきた大岩魚。
寄せて取ったのはいいけれど、稀に見る立派な魚体である。
いちいちスケールを当てるのは野暮の極みなどと思いながら、写真を撮る前に逃げられちゃった。
面目無いとしか言いようがない。
以前の投稿で、ランディング・ネットを散々こきおろしたツケであろうか。
いずれにせよ、釣り師として不徳の致すところであるが、口に毛鉤を引っ掛けた大岩魚がここに付いていることを確認できたわけである。
いずれこれを釣る機会が巡って来るに違いない。
とは言え、証拠写真が無いわけである。
ゆえに、この大岩魚の真偽に関しては日頃の信用が問われる局面であるが、申し開きをする心算は毛頭ない。

などど、太々しく開き直って煙草を喫うのであるが、逃げられても逃げられなくても尺超えを見ちゃうと何故か複雑な心境にさせられる。
尺越えの付き場で未練がましく粘った結果の身代わり。

この日の良型。


負け惜しみを言うと、さっきの尺越えよりよく引いたような気がする。
仕方がない、これぐらいで勘弁してやるか。
ハルゼミの声に時折ヒグラシの声が混じってきたね。


聞けば予定外の梅雨明けらしい。
この類の急激な気候の変動は溪魚が機嫌を損ねる典型的なパターンである。
そうは言っても、何も釣れませんでしたでは済まされないのが岩魚釣り師の辛い人生。
案の定、寄ってくるのは木っ端岩魚。
保育士になっていれば、僕の人生はさぞ充実したものになっていたに違いない。
しかも、これだけ弾かれ続けた暁にはスレ掛かりでも贅沢を言える立場では無さそうである。
さて、事件というものは往々にしてこのような閉塞感の中で起きるものである。
ゆらりと出てきた大岩魚。
寄せて取ったのはいいけれど、稀に見る立派な魚体である。
いちいちスケールを当てるのは野暮の極みなどと思いながら、写真を撮る前に逃げられちゃった。
面目無いとしか言いようがない。
以前の投稿で、ランディング・ネットを散々こきおろしたツケであろうか。
いずれにせよ、釣り師として不徳の致すところであるが、口に毛鉤を引っ掛けた大岩魚がここに付いていることを確認できたわけである。
いずれこれを釣る機会が巡って来るに違いない。
とは言え、証拠写真が無いわけである。
ゆえに、この大岩魚の真偽に関しては日頃の信用が問われる局面であるが、申し開きをする心算は毛頭ない。
などど、太々しく開き直って煙草を喫うのであるが、逃げられても逃げられなくても尺超えを見ちゃうと何故か複雑な心境にさせられる。
尺越えの付き場で未練がましく粘った結果の身代わり。
この日の良型。
負け惜しみを言うと、さっきの尺越えよりよく引いたような気がする。
仕方がない、これぐらいで勘弁してやるか。
ハルゼミの声に時折ヒグラシの声が混じってきたね。
2022年06月26日
岩魚街道 ネマガリダケなんか食ってやった
時には藪漕ぎを避けて通ることができない釣り師の人生。
中でもネマガリダケの藪漕ぎは、こんな苦労をするぐらいなら死んだ方がマシだと思えるほど過酷な重労働であるが、藪を制圧した釣り師は渓の全てを手に入れることができる。
仮にであるが、山深いネマガリダケの藪の中に岩魚を釣るためだけの杣道が先人の手によって切られていたとして、今でも人知れず空白の歴史を紡ぐ男が生き残っていたとしたらどうであろうか。
はっきり言って、ただの釣りバカとしか言いようがない。
本人が言うのであるから間違いない。

釣り師にとってネマガリダケは煮ても焼いても食えない抵抗勢力ながら、北信濃を代表する初夏の味覚として絶大な勢力を誇る人気者なのである。
皮を剥いて節を取り除いてしまうと、ほんの僅かしか食べるところが残らないという極めて歩留まりの悪い食材にも拘わらず、殊のほか愛好者が多いようで、この季節になると大勢のタケノコ採りが各地で大発生し、夜明けを待たずに一斉に薮に飛び込む様はどこか悲壮感を感じさせる。
さらに、タケノコを採っているうちに方向がわからなくなって、薮の中で力尽きて動けなくなっちゃうという遭難事故が多発するのもこの季節の風物詩である。
聞く所によると、ネマガリダケは食品市場ではとりわけ高値で取引されている高級食材らしいから、タケノコ採りの意識の中には、キロあたりの相場から一本あたりの単価を割り出して、これを何本採ればいくらになるというような計算が常にされているに違いない。
身も蓋も無いことを言うようだけれど、金銭に対するささやかな執着心が遭難の発生に多少なりとも影響しているのではないかと察せられちゃうあたり、微笑ましくもあり、人間的でもあると思いつつ、敢えて多くは語るまい。
まあ、そのあたりに関してはタケノコ採りが抱える永遠のテーマであるから、ネマガリダケが存在する限り、毎年のように同じことが繰り返されるに違いない。
けれど、笹薮の中で迷子になっちゃうのが釣り師であったとしたら話が変わってくる。
釣りの亡者と言わざるを得ない。
そのようなことが起きないように、岩魚の道には手入れが不可欠である。
藪は生き物であるから放っておくとすぐに道が塞がっちゃうのである。

本来であれば、このような仕事は若い世代が率先してやるべきであるが、良くも悪くもこの時世。
今時の若い奴等は全く以って使い物になりゃしないと嘆いた年配者の心情がこの年になってよくわかる。
そんな長年にわたる僕の苦労を分かち合うべく、自ら手助けを申し出てくれたのがB場ちゃんである。
咥え煙草でポケットに手を突っ込んで歩く様は相変わらずではあったがね。

しかも、充電式の電動工具まで持参してくれちゃうほどの至れり尽くせり。

このような男を人財という。
ここで財の字を充てたのはお察しのとおりである。
釣り師というものは人間性が顕著に顕れる人種である。
人財、人材、人在がそれぞれあり、ごく稀に人罪というものが存在する。
などと思いながら、この上なく辛い仕事をこの上なく心穏やかにこなすことができたのは釣友によるところである。
釣友の有難さが身に沁みて、副流煙が目に沁みた。
散々薙ぎ払っておきながら、ネマガリダケは今が旬である。
採り頃ぐらいは僕にもわかる。


採っちゃったものは仕方がない。
仕方がないから食ってやる。

僕の名はSFM。
わけあって、この渓谷の王になっちゃったと言えばなっちゃったのだろうけれど、年も年だし、近々引退したいと願いつつ、それもままならずに途方に暮れている男だ。
よろしく。

中でもネマガリダケの藪漕ぎは、こんな苦労をするぐらいなら死んだ方がマシだと思えるほど過酷な重労働であるが、藪を制圧した釣り師は渓の全てを手に入れることができる。
仮にであるが、山深いネマガリダケの藪の中に岩魚を釣るためだけの杣道が先人の手によって切られていたとして、今でも人知れず空白の歴史を紡ぐ男が生き残っていたとしたらどうであろうか。
はっきり言って、ただの釣りバカとしか言いようがない。
本人が言うのであるから間違いない。
釣り師にとってネマガリダケは煮ても焼いても食えない抵抗勢力ながら、北信濃を代表する初夏の味覚として絶大な勢力を誇る人気者なのである。
皮を剥いて節を取り除いてしまうと、ほんの僅かしか食べるところが残らないという極めて歩留まりの悪い食材にも拘わらず、殊のほか愛好者が多いようで、この季節になると大勢のタケノコ採りが各地で大発生し、夜明けを待たずに一斉に薮に飛び込む様はどこか悲壮感を感じさせる。
さらに、タケノコを採っているうちに方向がわからなくなって、薮の中で力尽きて動けなくなっちゃうという遭難事故が多発するのもこの季節の風物詩である。
聞く所によると、ネマガリダケは食品市場ではとりわけ高値で取引されている高級食材らしいから、タケノコ採りの意識の中には、キロあたりの相場から一本あたりの単価を割り出して、これを何本採ればいくらになるというような計算が常にされているに違いない。
身も蓋も無いことを言うようだけれど、金銭に対するささやかな執着心が遭難の発生に多少なりとも影響しているのではないかと察せられちゃうあたり、微笑ましくもあり、人間的でもあると思いつつ、敢えて多くは語るまい。
まあ、そのあたりに関してはタケノコ採りが抱える永遠のテーマであるから、ネマガリダケが存在する限り、毎年のように同じことが繰り返されるに違いない。
けれど、笹薮の中で迷子になっちゃうのが釣り師であったとしたら話が変わってくる。
釣りの亡者と言わざるを得ない。
そのようなことが起きないように、岩魚の道には手入れが不可欠である。
藪は生き物であるから放っておくとすぐに道が塞がっちゃうのである。
本来であれば、このような仕事は若い世代が率先してやるべきであるが、良くも悪くもこの時世。
今時の若い奴等は全く以って使い物になりゃしないと嘆いた年配者の心情がこの年になってよくわかる。
そんな長年にわたる僕の苦労を分かち合うべく、自ら手助けを申し出てくれたのがB場ちゃんである。
咥え煙草でポケットに手を突っ込んで歩く様は相変わらずではあったがね。
しかも、充電式の電動工具まで持参してくれちゃうほどの至れり尽くせり。
このような男を人財という。
ここで財の字を充てたのはお察しのとおりである。
釣り師というものは人間性が顕著に顕れる人種である。
人財、人材、人在がそれぞれあり、ごく稀に人罪というものが存在する。
などと思いながら、この上なく辛い仕事をこの上なく心穏やかにこなすことができたのは釣友によるところである。
釣友の有難さが身に沁みて、副流煙が目に沁みた。
散々薙ぎ払っておきながら、ネマガリダケは今が旬である。
採り頃ぐらいは僕にもわかる。
採っちゃったものは仕方がない。
仕方がないから食ってやる。
僕の名はSFM。
わけあって、この渓谷の王になっちゃったと言えばなっちゃったのだろうけれど、年も年だし、近々引退したいと願いつつ、それもままならずに途方に暮れている男だ。
よろしく。
2022年06月20日
尺が出る ツキノワグマが去っていく
この日の入渓は昼下がり。
何だか暑いね。
溪に降り立った僕を高台から見下ろしながら出迎えてくれたのはツキノワグマの成獣である。
つい目が合っちゃった。
と思ったのは僕の方で、聞く所によると彼らの視力はけっこう弱いそうである。
けれど、なにか感じるところがあったのだろう。
僕がカメラを取り出す間も無く、尾根筋を登って見えなくなってしまった。
僕としては尺上岩魚よりツキノワグマの写真が撮りたかった。
などと言ったら岩魚たちに怒られるだろうか。
互いに覇気を使ったわけではない。
釣り師としては、平和的外交を実践したこの大型哺乳類の姿勢を高く評価するところである。
さしあたり、プーチンあたりにはクマの爪の垢でも煎じて飲ませておけばよろしい。
ついでと言ってはナンだけれど、来月に控えた参議院選挙の論点を鑑み、アレやコレにも飲ませてやりたいところである。
そのようなことを漠然と思いながら岩魚を釣る。


さて。
前回の釣行の折、某所に打ち捨てられていたランディング・ネットである。
物は試し、これで岩魚を掬って写真を撮ってみたらどうであるか。

残念ながら僕が撮ると何故か釈然としない写真になっちゃうのである。
これは岩魚やネット自体が悪いわけではない。
僕に写真を撮るセンスが備わっていないことが問題なのである。
次に登場するのは曲がりなりにも尺上であるが、このようにどこか冴えない写真を撮られたとあっては尺岩魚も立つ瀬がない。
釣り師として不徳の致すところである。

拾ったネットを使っておきながらこんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、魚が掛かる度にいちいち掬っていては手間が掛かって仕方がない。
サクッと素手で取っちまった方が仕事が早い。
だからというわけではないけれど、このネットの不法投棄に関わった向きにおかれては、画面左のオーナーにメッセージというところをクリックして申し出るとよろしい。
適正な審査に基づき、速やかに返還する用意がある。
その際には、釣り場に物を捨てた事に対するささやかな説教と、仮に無券者であった場合には相応のお仕置きを覚悟して頂く必要があるがね。
申し込み期限は2022年7月末日までということでどうであろうか。




帰路。
斜面に取り付きながら、先刻にクマが登っていった尾根を横目で眺める。

夕立は湯舟に立ち寄ってやり過ごす。

この日の締めは信州サーモンである。
米合衆国大統領のジョー・バイデンが来日した折に、この魚のムニエルが膳に供されたそうである。
和の心に基づいて釣行を終えた岩魚釣り師は、腹身に下味をつけて仕立てられた松前漬けによく冷えた生酒を合わせるのである。

僕には作ることができないけれど、要するにそういうことなのである。
何だか暑いね。
溪に降り立った僕を高台から見下ろしながら出迎えてくれたのはツキノワグマの成獣である。
つい目が合っちゃった。
と思ったのは僕の方で、聞く所によると彼らの視力はけっこう弱いそうである。
けれど、なにか感じるところがあったのだろう。
僕がカメラを取り出す間も無く、尾根筋を登って見えなくなってしまった。
僕としては尺上岩魚よりツキノワグマの写真が撮りたかった。
などと言ったら岩魚たちに怒られるだろうか。
互いに覇気を使ったわけではない。
釣り師としては、平和的外交を実践したこの大型哺乳類の姿勢を高く評価するところである。
さしあたり、プーチンあたりにはクマの爪の垢でも煎じて飲ませておけばよろしい。
ついでと言ってはナンだけれど、来月に控えた参議院選挙の論点を鑑み、アレやコレにも飲ませてやりたいところである。
そのようなことを漠然と思いながら岩魚を釣る。
さて。
前回の釣行の折、某所に打ち捨てられていたランディング・ネットである。
物は試し、これで岩魚を掬って写真を撮ってみたらどうであるか。
残念ながら僕が撮ると何故か釈然としない写真になっちゃうのである。
これは岩魚やネット自体が悪いわけではない。
僕に写真を撮るセンスが備わっていないことが問題なのである。
次に登場するのは曲がりなりにも尺上であるが、このようにどこか冴えない写真を撮られたとあっては尺岩魚も立つ瀬がない。
釣り師として不徳の致すところである。
拾ったネットを使っておきながらこんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、魚が掛かる度にいちいち掬っていては手間が掛かって仕方がない。
サクッと素手で取っちまった方が仕事が早い。
だからというわけではないけれど、このネットの不法投棄に関わった向きにおかれては、画面左のオーナーにメッセージというところをクリックして申し出るとよろしい。
適正な審査に基づき、速やかに返還する用意がある。
その際には、釣り場に物を捨てた事に対するささやかな説教と、仮に無券者であった場合には相応のお仕置きを覚悟して頂く必要があるがね。
申し込み期限は2022年7月末日までということでどうであろうか。
帰路。
斜面に取り付きながら、先刻にクマが登っていった尾根を横目で眺める。
夕立は湯舟に立ち寄ってやり過ごす。
この日の締めは信州サーモンである。
米合衆国大統領のジョー・バイデンが来日した折に、この魚のムニエルが膳に供されたそうである。
和の心に基づいて釣行を終えた岩魚釣り師は、腹身に下味をつけて仕立てられた松前漬けによく冷えた生酒を合わせるのである。
僕には作ることができないけれど、要するにそういうことなのである。
2022年06月15日
地道にコツコツ岩魚を釣る
梅雨入りである。
近年、梅雨というものは大地を潤す恵みの雨ではなく、甚大な災害をもたらす警戒すべき対象にされてしまった感がある。
現代社会に生きる詩人、歌人、俳人たちはこの変異した季節の風物詩をどのように扱うのだろうか。
本降りの翌朝。
釣り師にとっても、昨今の梅雨は先行きの読めない相場のようであるが、僕は投資家ではない。その日暮らしの慎ましき岩魚釣り師である。
時節柄というワケではないけれど、ただ釣りに行けば良いってもんじゃなくて、落石や崩落、急激な出水などが起きにくい地相の渓を選ばなくてはならない。
聞くところによると、釣り欲に流されるまま、分不相応な領域に踏み込んだ挙句、取り返しのつかないことになった経験の持ち主はちらほらといるらしいのであるが、一献の酒のお伽にもなりゃしない。
僕は会ったことはないけれど。

さて、気分を変えよう。
まあ、この渓であればまず死ぬようなことはあるまい。
などと思いつつ、何の変哲もない釣り師が、何の変哲もない岩魚を黙々と釣る。



底に張り付いた魚を一匹ずつ剥がしながら拾い歩く作業は非効率の極みであるが、文句を言わずに釣り続けていればいずれ良いことがあると思いたい。
などと、努めて謙虚なことを呟いた矢先に尺っぽい良型を釣り落とす。
やれやれ。



枝に引っ掛かっていた毛鉤を発見。
今夜は老眼鏡をかけて詳細な精査の上、この毛鉤がどのような意図で巻かれたものであるか徹底的に検証する必要がある。
このような所までやって来るぐらいであるから、大方の察しは付くけれど、これを巻いた釣り師の氏素性から人間性に到るまで、この毛鉤は僕に詳しく供述をすることと思われる。
これは良い酒の肴になるネ。
流木に引っ掛かっていたランディング・ネットを発見。
僕はネットを持ち歩くことがないから詳しいことは語れないけれど、握りに銘木などを使ってあるようで、なかなかの手の込みようである。
さらに、とりわけ小ぶりに作ってあるあたり、ほんの小魚であっても、せめて写真上では大きく見せてやろうとでも言いたげな思惑が見て取れる。
いずれにせよ、釣り場に物を捨てるようでは釣り師失格である。
僕にとっては邪魔であるが、仕方無く回収せざるを得ない。



地道にコツコツと釣り続けた一日。

実を言うと、けっこう寒かったのであるよ。


近年、梅雨というものは大地を潤す恵みの雨ではなく、甚大な災害をもたらす警戒すべき対象にされてしまった感がある。
現代社会に生きる詩人、歌人、俳人たちはこの変異した季節の風物詩をどのように扱うのだろうか。
本降りの翌朝。
釣り師にとっても、昨今の梅雨は先行きの読めない相場のようであるが、僕は投資家ではない。その日暮らしの慎ましき岩魚釣り師である。
時節柄というワケではないけれど、ただ釣りに行けば良いってもんじゃなくて、落石や崩落、急激な出水などが起きにくい地相の渓を選ばなくてはならない。
聞くところによると、釣り欲に流されるまま、分不相応な領域に踏み込んだ挙句、取り返しのつかないことになった経験の持ち主はちらほらといるらしいのであるが、一献の酒のお伽にもなりゃしない。
僕は会ったことはないけれど。
さて、気分を変えよう。
まあ、この渓であればまず死ぬようなことはあるまい。
などと思いつつ、何の変哲もない釣り師が、何の変哲もない岩魚を黙々と釣る。
底に張り付いた魚を一匹ずつ剥がしながら拾い歩く作業は非効率の極みであるが、文句を言わずに釣り続けていればいずれ良いことがあると思いたい。
などと、努めて謙虚なことを呟いた矢先に尺っぽい良型を釣り落とす。
やれやれ。
枝に引っ掛かっていた毛鉤を発見。
今夜は老眼鏡をかけて詳細な精査の上、この毛鉤がどのような意図で巻かれたものであるか徹底的に検証する必要がある。
このような所までやって来るぐらいであるから、大方の察しは付くけれど、これを巻いた釣り師の氏素性から人間性に到るまで、この毛鉤は僕に詳しく供述をすることと思われる。
これは良い酒の肴になるネ。
流木に引っ掛かっていたランディング・ネットを発見。
僕はネットを持ち歩くことがないから詳しいことは語れないけれど、握りに銘木などを使ってあるようで、なかなかの手の込みようである。
さらに、とりわけ小ぶりに作ってあるあたり、ほんの小魚であっても、せめて写真上では大きく見せてやろうとでも言いたげな思惑が見て取れる。
いずれにせよ、釣り場に物を捨てるようでは釣り師失格である。
僕にとっては邪魔であるが、仕方無く回収せざるを得ない。
地道にコツコツと釣り続けた一日。
実を言うと、けっこう寒かったのであるよ。
2022年06月08日
尺が出るのはいいけれど 釣っても釣ってもキリがない
釣り始めてから数匹目。
なぜか尺上である。

少し間をおいてもう一本。
これも尺上である。

渓流域に棲む岩魚が尺を超えるまでには相応の年数に亘り過酷な環境を生き抜かなければならない。
そのような尺上に逢えたことに対して僕は釣り師として幸運と言わざるを得ない。
けれど、これを手放しで喜んでいいものだろうか。
格差社会に取り残された側であるこの僕には、おいしい話など転がり込んで来た試しがない。
物事には代償というものが付き物である。
いずれ、高いツケが回って来やしないかと、不安の方が先に立っちゃうわけである。
例えばであるが。
山中で方向を失って遭難するとか。
ツキノワグマとの戦闘に敗北して新聞に載るとか。
次の瞬間、岩盤の亀裂に躓いて転落したり、落石に当たったりなど、大怪我をしたり死んだりするとか。
いずれも釣り師として失格に値する実例であるが、首尾よく無事に釣行を終えたとしても、帰宅してみたらつゆ知らぬところで何かとんでもないことに巻き込まれている可能性もゼロではない。
小心者の岩魚釣り師としては、尺上が釣れる度に複雑な心境になっちゃうのである。
まあ、これぐらいであれば気兼ねなく釣っていられるのであるがね。






さて、次に登場するのは泣き尺である。
これが潜り始めた時はサオが音を立てて軋んだ。
折れるかと思った。

さらにもう一本。

後は野となれ山となれ。
無責任なことを言うようだけれど、釣れちゃったものは仕方がないとしか言いようがない。
やがて状況が打って変わり、木っ端岩魚が際限なく釣れ始める。


釣って釣って釣りまくる。
などと言うのは釣り師としての品格に欠ける。
釣っても釣ってもキリがないと、小声で呟くべき局面であると僕は思う。

やけのやんぱち日焼けのなすび・・・とまでは言わないけれど、尺上や泣き尺を釣るよりも、寧ろこのような小魚を釣る方が難しいのではないかと思いたくなるのが人情というものである。
まあ、このような時は潔く店仕舞いをするべきではないだろうか。
物事には潮時というものがある。
時折感じていた微かな甘い香り.

藤の花に目を留めたのは釣り終えてから。
帰路。
急斜面の肩にロープを設えつつ、身体機能が衰えたにも拘らず、口だけは達者な釣友に思いを馳せる。

滅茶苦茶な釣りだったけれど、やることはやっておいたよ。

なぜか尺上である。
少し間をおいてもう一本。
これも尺上である。
渓流域に棲む岩魚が尺を超えるまでには相応の年数に亘り過酷な環境を生き抜かなければならない。
そのような尺上に逢えたことに対して僕は釣り師として幸運と言わざるを得ない。
けれど、これを手放しで喜んでいいものだろうか。
格差社会に取り残された側であるこの僕には、おいしい話など転がり込んで来た試しがない。
物事には代償というものが付き物である。
いずれ、高いツケが回って来やしないかと、不安の方が先に立っちゃうわけである。
例えばであるが。
山中で方向を失って遭難するとか。
ツキノワグマとの戦闘に敗北して新聞に載るとか。
次の瞬間、岩盤の亀裂に躓いて転落したり、落石に当たったりなど、大怪我をしたり死んだりするとか。
いずれも釣り師として失格に値する実例であるが、首尾よく無事に釣行を終えたとしても、帰宅してみたらつゆ知らぬところで何かとんでもないことに巻き込まれている可能性もゼロではない。
小心者の岩魚釣り師としては、尺上が釣れる度に複雑な心境になっちゃうのである。
まあ、これぐらいであれば気兼ねなく釣っていられるのであるがね。
さて、次に登場するのは泣き尺である。
これが潜り始めた時はサオが音を立てて軋んだ。
折れるかと思った。
さらにもう一本。
後は野となれ山となれ。
無責任なことを言うようだけれど、釣れちゃったものは仕方がないとしか言いようがない。
やがて状況が打って変わり、木っ端岩魚が際限なく釣れ始める。
釣って釣って釣りまくる。
などと言うのは釣り師としての品格に欠ける。
釣っても釣ってもキリがないと、小声で呟くべき局面であると僕は思う。
やけのやんぱち日焼けのなすび・・・とまでは言わないけれど、尺上や泣き尺を釣るよりも、寧ろこのような小魚を釣る方が難しいのではないかと思いたくなるのが人情というものである。
まあ、このような時は潔く店仕舞いをするべきではないだろうか。
物事には潮時というものがある。
時折感じていた微かな甘い香り.
藤の花に目を留めたのは釣り終えてから。
帰路。
急斜面の肩にロープを設えつつ、身体機能が衰えたにも拘らず、口だけは達者な釣友に思いを馳せる。
滅茶苦茶な釣りだったけれど、やることはやっておいたよ。
2022年06月01日
魚が下手か 釣り師が下手か
山間地でも大方の雪が消えて、林道が通れるようになっているであろう頃合を見極める。
渓筋に降り立ってみれば日陰には少しばかりの残雪。

つぶさに分析したところ、今年も僕が一番乗りであると言い切って差し支え無さそうである。
さて、釣りを始めようか。
この渓の住民諸君。
久し振りに君たちに会うために僕はここに来た。
手荒なことをするつもりは無い。
僕は侵略者ではない。
君たちと共に渓の未来に向けた取り組みに尽力するパートナーである。
などというのは典型的な偽善者の台詞である。
釣り上げてから速やかに流れに戻そうと、鉤先のアゴを潰してから魚を掛けようと、渓魚に対して手荒なことをするためにやって来るのが釣り師なのである。
そのような身も蓋もない発言に対して世論というものは敏感に反応する。
次から次へと年端もいかぬ木っ端岩魚たちが猛反発。




さらに、稀に掛けた良型も食いが浅いと見えてことごとく釣り落とす。
この時期の岩魚たちの捕食がまだ下手なのか、釣り師である僕が下手なのか。
まあ、そのあたりに関しては、僕のウデが悪いということにしておけば物事が穏便に収まるのではないかと思う。
致し方なく、雪代が引けて其処彼処に引っかかっている流木を拾い集め、過去に無く盛大な火遊びに精を出す。

地合いが変わる昼下がり。



この日の努力はいずれ報われると思いたい。



釣り終えて煙草を一本だけ喫いながら、咥え煙草で田植えに精を出しているであろう釣友を思い出す。

後に聞いたところによると。
ちょうどその頃、前日のうちに手早く田植えを済ませた当のB場ちゃんは、別の渓の上流域に赴き、尺上2本に泣き尺1本を揃え、その他諸々を上げていたそうである。
誰にも見られることのない下品な笑みを浮かべていたに違いない。
しかも咥え煙草で。
まあいい。
日頃から努力を惜しまず、地道に釣行を続けているB場ちゃんのサオを立派な尺上がしならせたわけである。
僕にとってこれほど喜ばしいことがあるだろうか。

ただ、残念なことに彼は下戸である。
代わりに祝杯を上げるぐらいはお安いご用であるヨ。

渓筋に降り立ってみれば日陰には少しばかりの残雪。
つぶさに分析したところ、今年も僕が一番乗りであると言い切って差し支え無さそうである。
さて、釣りを始めようか。
この渓の住民諸君。
久し振りに君たちに会うために僕はここに来た。
手荒なことをするつもりは無い。
僕は侵略者ではない。
君たちと共に渓の未来に向けた取り組みに尽力するパートナーである。
などというのは典型的な偽善者の台詞である。
釣り上げてから速やかに流れに戻そうと、鉤先のアゴを潰してから魚を掛けようと、渓魚に対して手荒なことをするためにやって来るのが釣り師なのである。
そのような身も蓋もない発言に対して世論というものは敏感に反応する。
次から次へと年端もいかぬ木っ端岩魚たちが猛反発。
さらに、稀に掛けた良型も食いが浅いと見えてことごとく釣り落とす。
この時期の岩魚たちの捕食がまだ下手なのか、釣り師である僕が下手なのか。
まあ、そのあたりに関しては、僕のウデが悪いということにしておけば物事が穏便に収まるのではないかと思う。
致し方なく、雪代が引けて其処彼処に引っかかっている流木を拾い集め、過去に無く盛大な火遊びに精を出す。
地合いが変わる昼下がり。
この日の努力はいずれ報われると思いたい。
釣り終えて煙草を一本だけ喫いながら、咥え煙草で田植えに精を出しているであろう釣友を思い出す。
後に聞いたところによると。
ちょうどその頃、前日のうちに手早く田植えを済ませた当のB場ちゃんは、別の渓の上流域に赴き、尺上2本に泣き尺1本を揃え、その他諸々を上げていたそうである。
誰にも見られることのない下品な笑みを浮かべていたに違いない。
しかも咥え煙草で。
まあいい。
日頃から努力を惜しまず、地道に釣行を続けているB場ちゃんのサオを立派な尺上がしならせたわけである。
僕にとってこれほど喜ばしいことがあるだろうか。
ただ、残念なことに彼は下戸である。
代わりに祝杯を上げるぐらいはお安いご用であるヨ。