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2018年04月29日

クマの巣で、道を直して試し釣り

この川の岩魚を釣るためには冬の間に傷んだ道を修復しなければならない。

僕は道路管理者ではないけれど、毎年のようにこの道の点検、整備をしているのである。
もっとも、オフロード用の単車が一台、通り抜けられる程度に倒木や落石を取り除く程度であるけれど。
岩魚はタダでは釣れないのである。

仕事のあとの試し釣り。
汗の代償。





活性は今一つ。
滝下の開きに腰を据えて、一匹釣る度に、おにぎりを食べたり、煙草を喫ったり、コーヒーを落としたりして、付き場を休ませなければならない。





まあいい。
僕の活性もまだ高くはない。
そこはお互い様である。
そもそも、試し釣りというものは、そう血眼になってやるものじゃないと思う。


いきなり不躾ではあるけれど、これは何であるか。



お察しの通り、ツキノワグマの糞である。
いくつも転がっているよ。

双方、意に反してはいても、たまには遭わなければならないのだろうか。
まあいい。
僕が入渓する溪は、どこに行っても多かれ少なかれクマはいる。



間もなく、僕の釣りが始まる。



  


2018年04月26日

中華そばには敵わない

一杯の中華そばと言ってしまえばそれまでであるが。
そこは感受性が問われるところであると思う。

物事には基本というものがある。
殊に、フライフィッシングは、とりわけ入門者の定着率が低い釣りの分野である。
基本を疎かにして、小手先で誤魔化していても長続きしないのはご承知の通りである。
この中華そば店で、僕はフライフィッシャーとしての謙虚さを、改めて学ばなければならない。

敢えて多くは語るまい。



この店では週に一度か二度、N井サンの流儀が展開される。

ちなみに、N井サンは釣り師ではない。
高度な武装色の覇気で肝臓を鍛え上げ、世に数多の焼酎甲類を打ち破ってきた伝説の御仁である。
無敵のアルコール王なのである。

開店の10分前には駐車場に着いていなければならない。
すると、おばちゃんが、まだ少しぐらい早くても、そっと手招きをして店に入れてくれるそうである。
少し遅れると、席がすっかり埋まってしまって、せっかくの努力が台無しになる。

要するに、ほんの数分の差が命取りになるらしいのである。


諸事万端、抜かりなくコトを運び、順番待ちができる頃合には、爪楊枝を咥えて涼しい顔で席を立つ。
察するところ、誰にも気付かれること無く、絶妙の間合いで、一撃必殺の十八番を決めた瞬間のような余韻が、彼の胸中に漂っているに違いない。


この店に出向くときに限っては、取引先であれ誰であれ、時間にルーズな手合いは容赦なくふるいにかけ、かつ排除いたすのだそうである。
案件の一つや二つが何であろう。
「仏のN井も5分まで!」なのである。

この中華そばを何度か経験した上で申し上げる。
N井サンの方針を僕は高く評価する。

人には、多少の犠牲を払ってでも手放せないものがあっていいのではないだろうか。



ひとつだけ申し上げたい。
ここのスープはとても美味しいから、僕はほとんど飲んじゃうけれど。
でもね、血圧には気をつけた方がいいかもよ、N井サン。







  


Posted by SFM at 20:23Comments(0)釣り師の日常

2018年04月23日

釣り師の段取り ライトラインのプレゼンテーション

真夏日ではあるけれど、日中の暑さに惑わされてはいけない。
浮足立つ気持ちもわからないではないけれど、山深い溪はそうそう甘くない。

ここは慌てず騒がず、実釣で多用するキャスティングレンジのプレゼンテーションを入念に仕上げる。



これが後から効いてくる。
僕はそう思いたい。

そう言いつつ、後日渓魚を釣るためのキャスティングを終えたら、この日は一人寡黙にクチボソを釣るのである。



我ながらやっていることが支離滅裂である。

支離滅裂ではあるけれど、僕は省庁の役人でもなければ閣僚でもない。

つじつまの合わない事柄を具現化できるのは、毛鉤釣り師だけなのであるよ。
そっと呟いて差し上げても構わないのであるがね。

このサオをご覧頂きたいのだけれど、ダメになったボールペンの柄に、廃材の樹脂の丸棒を削って差し込んだだけなのである。



ゴミとゴミをくっつけただけのサオに、ひらりひらりと釣れてくれるこの小魚を冷遇することは僕にはとてもできない。


さて。
名残惜しいけれど、里山の成長にも目を配らなければならない。
こう見えても僕は忙しいのである。



この、将星カタクリの小さな群生地を知っているのは、僕とイノシシだけではないだろうか。



道すがら、彼らの成長も見落としてはならない。





この芽を摘むにあたっては、いたわりというものが無ければならない。
それが無ければ人間失格である。



温泉の後は山菜の天ぷら。



決め手はカレー味の塩であるが、この配合は素人の領分を超える。
塩とカレー粉を、ただ混ぜればいいってもんじゃないらしいのである。
当然、僕には無理であるから、いそいそとプロを訪ねて、ほんの少しだけでいいから、などと言いながら分けてもらっちゃったのである。
この恩は、いつか躰でお返しをしなければならない。
合掌。
  


Posted by SFM at 19:56Comments(0)他の釣り

2018年04月19日

蕎麦は眠らない

この日は釣りに出掛けるわけではない。
蕎麦を打ちに出掛けるのである。

偉大なる先達の一時帰国なのである。

急遽、この日。
釣り師が相集って蕎麦を振舞うことになったそうで、打ち手のご指名は僕なのである。
実はKONちゃんの都合がつかなくて、消去法もへったくれもなく、打ち手が僕しかいないらしいのである。
要するに独壇場なのである。

日頃から、仕事をサボることにかけては1ミリも余念の無い僕ではあるが、これまでに享受した多大な恩恵に報いなければならない。

ここはソバソバの実の能力が漲る二八でなければならない。
「もり」や「かけ」では、とてもお話にならないのである。



さて。
毛鉤釣り師流手打ち蕎麦・覇王色の覇気を添えて。
さあ、おあがりよ。





などと、大口を叩いてはみても、僕の心境は複雑である。
人様は気付かないだろうけれど、あれやこれやと、もどかしさ、悩ましさなどが打ち手には見えてしまう。
思えば、蕎麦打ちに手を染めた時点で、僕の不幸は始まっていたのである。
フライフィッシングによく似ている。

この日の蕎麦はどうだっただろうか。

その昔、ダイワ精工のポスターにも、腕はプロ、心はアマでなければならないと書いてあったよ。

O野サン、お元気そうで何より。

S史クン、この日はご苦労さん。
釣り師というものは、常に謙虚でなければならないのであるヨ。



  


Posted by SFM at 20:27Comments(2)釣り師の日常

2018年04月16日

折れたフライロッドが甦る

サオが直った。

それなら試し釣りをしなければならない。







これで十分。
数釣りはまだ先でいい。

嘘にもハチにも魚を掛けなければ、試し釣りとは言えない。
ラインを乗せてサオを振るだけなら、ただの試し振りである。
ふと、そんな思いがよぎったのだけれど、人様の前では言わない方がよろしい。
正論というものは、ときに品格を問われる。

この折れたサオであるが。
国産品でもあるし、どうにかなりはしないかと思って、修理の依頼をしてみたのだけれど、型式が古くて製造元でも手の施しようが無かったのである。

それなら仕方が無いと、半ば諦めていたら、ここでもなぜかKONちゃんの出番なのである。



この男、登場のしかただけは、つい先ごろまで朝の連続テレビ小説に出演していた某人気俳優みたいである。

彼には以外に器用なところがある。
開口一番、「マジィ?」と言うのはお決まりの事だけれど、折れたサオを快く預かってくれて、手持ちの材料で詰め物やら被せ物などをして、どうにかこうにか直してくれたようである。

彼には明るい老後が待っていることと思う。
合掌。

ついでといってはナンだけれど。
今、僕の手元に残っている大半のサオとは、かれこれ20年以上の腐れ縁になってしまった。
どれも古株ばかりである。

けれど、僕は釣具の世代交代は考えていない。
人は歳をとる。
残された現役としての寿命を思えば、先が知れていると思うからだ。
将来への投資を打ち切って、保守管理に方針を移行して久しい。

この釣りを始めてから、早々と物欲から解脱できたのかと言うと、実はそうでもなくて、物事というものは、常に先立つものがあってのことであるから、我が家の暮らし向きを思うにつけ、自粛などを致し、悶々としたことは日常茶飯事であったのだけれど、そんなことも今になれば懐かしい。
うまく言えないけれど、そういうことでもある。

さて。
KONちゃんは下戸下戸の実の能力者である。
僕は致し方なく、一人でサオの快気祝いをしなければならない。



山間地の桜は今が満開。


  


2018年04月12日

失くした毛鉤は物語る

それなりに釣り師が入溪する川では、枝葉に絡まったままの毛鉤を見かけることがある。

誰しも、立ち位置や、狙いたいポイントがおおよそ似ているらしく、毛鉤をとられるところも同じようなところのようである。

そんな毛鉤を手にとってよく見ると、釣り師の癖や熟練の度合い、込められた工夫などが目に浮かぶように思える。
とりわけ、丁寧に巻かれた毛鉤からは、ときに人柄が偲ばれることもある。

さて、僕が無くした毛鉤を見つけた釣り師は何を思っただろうか。
とある夜、毛鉤を巻きつつ品の悪い笑みを醸した僕の下心は、いともたやすく見抜かれてしまっただろうか。



そうそう人様にはお見せしたくなかったのだけれど。
そこは釣り師。
そっと、一笑に付して頂きたいところ。

  


Posted by SFM at 20:29Comments(0)釣り師の日常

2018年04月09日

毛鉤釣り師が餌で釣る

ここは外来魚の密放流からも見落とされた、ひっそりとした小さな池。
わざわざB場ちゃんに頼んで連れてきてもらったのである。



今回のお題はクチボソ。
僕がこれを釣るのは何十年振りだろうか。

いい年をした男が二人、幼少の頃を思い出して、練り餌などを捏ねまわしつつ、足元に群れる小魚を釣るのである。

物心がついて、アブラビレに惹かれるようになってからは、ずいぶん長く遠ざかっていたけれど、こう見えても僕は餌釣りだって出来るのである。

この素朴な道具立てをご覧頂きたい。



先日、押入れを弄って引っ張り出したのである。
さらに、足りないものを買い足しに釣具店に出掛けたのだけれど、こんなウキはもう売っていなかったのであるよ。

トウガラシウキや板オモリなどをしげしげと眺めていると、懐かしいやら何やらで、泣けてくる御仁もおいでになるのではではないだろうか。

このところ、フライフィッシングの道具は入手しにくくなったようだけれど、小魚釣りの道具などはさらに希少に思えてくる。

釣り場環境について言えば、渓流域よりむしろこちらのほうが重症かもしれない。
そもそも、「小鮒釣りしかの川」が、そうそう無いのである。
ちなみに、「かの山」では、野ウサギのみならず、有害鳥獣の被害に頭を痛めているのが実情のようである。

やってみると、この釣りは奥が深い。
むしろ、フライフィッシングで岩魚を釣るより難しいかもしれないよ。
高度なゲームフィッシングの感性が求められる。



物の本で読んだ、タナゴ師が掌に一束を並べて悦に入る心情が、今わかった。

幼少の頃、小魚を釣らせたら釣り盛りの大人に引けをとらなかったあいつが、既に見聞色の覇気を備えていたことが、今わかった。

B場ちゃんは早々とつ抜けをこなす。
流石と言っていい。

僕はだいぶ遅れてつ抜けができたのだけれど、つい悪い手癖が出ちゃう。
これである。



どれどれ。

ほらネ。



さて。
釣り方に工夫をする余地はけっこうあるけれど、そのあたりはまたの機会に。
キリのいいところで納竿。

宇木の枝垂れ桜を訪ねてみたりして。



温泉に入って。

さて、お仕舞いはこうでなきゃいけない。



  


Posted by SFM at 20:00Comments(0)他の釣り

2018年04月07日

花は咲けども 是正勧告 憲法違反

杏の里からのお誘いである。

曲がりなりにも仕事の依頼なのだけれど、きっと杏の花の盛りを見計らって呼んでくれたに違いない。

実際には、前日の強風で花びらの大方は持っていかれてしまっていたけれど。
それでも、仕事をサボることが好きな僕としては、S水サンの心遣いには感謝したいところである。



親切には親切で応えなければならない。
いい仕事をしてお返しをしよう。
それが人というものである。

仮に、不純なプレゼントなどを人様に贈ると、高い利息がついて還ってくるものである。
是正勧告は我が身から。
物事には順序というものがあるよ。

それから君たち。
「君たちは憲法違反かもしれないのだから、何かあれば命を張る前に、せめて文書の取り扱いぐらいは適切にやってくれないか。」
などと、誰かサンに言われないようにした方がいいと思うよ。

さて、誰かサン。
花は咲けどもいずれ散る。
早かれ遅かれ違いはあれど。
未練に濡れる糸白し。
これにて年貢の納め時。

花が散る杏の里で仕事をサボりつつ、ラジオのニュース番組などを聞くともなしに。
ふと。



  


Posted by SFM at 20:24Comments(2)釣り師の日常

2018年04月05日

釣り師にだって花は咲く

桜の花がいい具合になったようである。
今年は桜も梅も杏も、どれも一時に咲いてしまったけれど、それをとやかく言うのは筋違いである。
人の都合に合わせて桜が咲けば誰も苦労しないのである。

さて、本日。
時には、少しぐらい仕事をサボって桜を眺めてもいいのではないだろうか。







そうは言いつつ、大勢の花見客が押しかける桜の名所は僕には無理である。
商魂のしたたかさが鼻について、どうにも戴けない。

ほとんど人影の無い、隠れ桜に暫し足を止めて眺めるだけでいい。
人にもよるだろうけれど、岩魚釣り師の性分とはそういうものではないだろうか。

さてさて。
花の記憶を肴に昇天。



  


Posted by SFM at 19:39Comments(2)釣り師の日常

2018年04月02日

釣り日和 釣り師はタイヤを履き替える

大方の河川が解禁を済ませ、桜の開花を心待ちにする頃合いではあるが、北信濃ではタイヤ交換の季節である。

この日は実家に赴き、老母、姪、娘、それぞれの軽自動車のタイヤをまとめて3台分、履き替えなければならない。

手近なところ、僕以外には男手がないわけで、まあ致し方無いところなのである。







我が家に限ったことではないけれど、総じて女手というものは口数と手数が反比例するように思えるのは僕の気のせいだろうか。
いやいや、そんなときこそ寡黙、かつ穏便にやり過ごした方が得策であると僕は思う。

さて。
老母は別として。
問題は姪と娘である。
それなりの年頃のようではあるが。
ちょいと顎をしゃくるだけで、力仕事に黙々と取り掛かってくれるような、若くてイキが良い、ついでに都合もいい、そんな男友達の一人や二人、速やかに用意できないものだろうか。
ふと、そんな思いがよぎるのだけれど、ここでも沈黙は金である。

まあいい。
僕は長年、世間から都合よく顎で使われてきた側である。
今更、とやかく言えた筋合いでもない。




土手下では、ちらほらと菜花が咲き始めた穏やかな春の一日。

やわらかい陽がきらめく溪の流れに思いを馳せつつ。

僕にとって分不相応な第一のビールは老母の心尽くし。


  


Posted by SFM at 20:50Comments(0)釣り師の日常