2022年09月07日
腕利きの釣友 最悪の先客
野暮用を終えて釣り場に着いたのは昼過ぎ。
車停めには先客の車。
よりによってB場ちゃんの車である。
やれやれ。

沢に降りて間もなく犯人を発見。

日差しを避け、僕に背を向けて食べているのはコンビニのおにぎりである。
朝から釣り始めて、つ抜けたところでサオを収めて戻ってきたそうである。
泣き尺が釣れたらしい。
「大丈夫、多分また出ますよ。」
などと、一応は気遣ってくれている素振りであるが、どのような根拠があって言っているのだろうか。
咥え煙草で悠々と引き上げて行くB場ちゃんを横目で見送りながらサオを継ぐ。
「まあ、やってみるか。ダメ元で。」
僕にとってB場ちゃんは実に得難い釣友である。
けれど、釣り場の先客としては最悪の男である。
しかも前回の釣行で、この男は僕を差し置いて尺岩魚を2本も上げているのである。
このような男が往復した沢筋を釣ることになっちゃったわけである。
先客が釣った後はサオ抜けを狙えばいいなんて、そんな甘いことを言っていられる相手じゃないのである。
浮かべるだけでは心許ない。
沈めたり、しゃくったりと、先が見えない手探り状態。
不器用な男がネチネチと釣る。
すると、何かの拍子に掌ほどの岩魚が釣れてくる。




いつまでやっていてもキリがない。
ここは多少なりとも局面を打開しておきたいところである。
あまり使いたくはないけれど、覇王色の覇気を発動する。







少しは効いただろうか。
さて。
湯上りに大事件が発生する。

天然マイタケである。
しかも、僕にも少し分けてくれるというのである。

すき焼きの主役は牛肉ではなくマイタケであるよ。

車停めには先客の車。
よりによってB場ちゃんの車である。
やれやれ。
沢に降りて間もなく犯人を発見。
日差しを避け、僕に背を向けて食べているのはコンビニのおにぎりである。
朝から釣り始めて、つ抜けたところでサオを収めて戻ってきたそうである。
泣き尺が釣れたらしい。
「大丈夫、多分また出ますよ。」
などと、一応は気遣ってくれている素振りであるが、どのような根拠があって言っているのだろうか。
咥え煙草で悠々と引き上げて行くB場ちゃんを横目で見送りながらサオを継ぐ。
「まあ、やってみるか。ダメ元で。」
僕にとってB場ちゃんは実に得難い釣友である。
けれど、釣り場の先客としては最悪の男である。
しかも前回の釣行で、この男は僕を差し置いて尺岩魚を2本も上げているのである。
このような男が往復した沢筋を釣ることになっちゃったわけである。
先客が釣った後はサオ抜けを狙えばいいなんて、そんな甘いことを言っていられる相手じゃないのである。
浮かべるだけでは心許ない。
沈めたり、しゃくったりと、先が見えない手探り状態。
不器用な男がネチネチと釣る。
すると、何かの拍子に掌ほどの岩魚が釣れてくる。
いつまでやっていてもキリがない。
ここは多少なりとも局面を打開しておきたいところである。
あまり使いたくはないけれど、覇王色の覇気を発動する。
少しは効いただろうか。
さて。
湯上りに大事件が発生する。
天然マイタケである。
しかも、僕にも少し分けてくれるというのである。
すき焼きの主役は牛肉ではなくマイタケであるよ。
2022年08月28日
尺二本 僕が釣ったわけじゃないけれど
天気予報では昼頃から雨が降ることになっている。
まあいい。降り始めたら帰ろう。
相方はB場ちゃん。
この男は晴男である。
因みにKONちゃんは雨男である。
水温は17度。
わかっちゃいるけれど、これはよろしくない。
弾かれたり、時には掛けたりと、同じ事の繰り返し。
予定通り、木っ端岩魚ばかりである。


B場ちゃんはこの日も咥え煙草である。
致し方なく僕も煙草を喫いながら眺めていると魚が掛かったようである。

しかもけっこうなサオのしなり具合。
これはスレで掛けたネ。
いや、そうでもなさそうである。
寄せて取ってみると尺越えである。

一方、僕に釣れて来るのは木っ端岩魚である。


焚火依存症とでも言えばいいのだろうか。
理由なき火遊びである。

昼下がり。
敢えて煙草を喫わずに見ていると、B場ちゃんが瀬尻に落とした毛鉤を上流から追って来た大岩魚が食っちまった。
すげぇ。

「欲を出して引きを愉しもうと思っているとバラすよ。最短時間で取っちまいな。」
「そんな余裕無いって。」

わざわざ測るまでもなく立派な尺越えである。
何という男であろうか。
尺越えを二本である。
まあいい。
日頃から地道にコツコツと努力を絶やさない男である。
時には下品な笑みぐらい浮かべてもいいのであるよ。
いい思い出が出来たじゃないか。
まあ、僕に釣れたのは木っ端岩魚ばかりであるがね。

さて。
この釣果は、師匠が聞けば最高に面白がるパターンに違いない。
いい土産話が出来た。

尺二本の竿頭は下戸である。
代わりに僕が祝杯を上げてやる。

結局、雨は降らなかったネ。
まあいい。降り始めたら帰ろう。
相方はB場ちゃん。
この男は晴男である。
因みにKONちゃんは雨男である。
水温は17度。
わかっちゃいるけれど、これはよろしくない。
弾かれたり、時には掛けたりと、同じ事の繰り返し。
予定通り、木っ端岩魚ばかりである。
B場ちゃんはこの日も咥え煙草である。
致し方なく僕も煙草を喫いながら眺めていると魚が掛かったようである。
しかもけっこうなサオのしなり具合。
これはスレで掛けたネ。
いや、そうでもなさそうである。
寄せて取ってみると尺越えである。
一方、僕に釣れて来るのは木っ端岩魚である。
焚火依存症とでも言えばいいのだろうか。
理由なき火遊びである。
昼下がり。
敢えて煙草を喫わずに見ていると、B場ちゃんが瀬尻に落とした毛鉤を上流から追って来た大岩魚が食っちまった。
すげぇ。
「欲を出して引きを愉しもうと思っているとバラすよ。最短時間で取っちまいな。」
「そんな余裕無いって。」
わざわざ測るまでもなく立派な尺越えである。
何という男であろうか。
尺越えを二本である。
まあいい。
日頃から地道にコツコツと努力を絶やさない男である。
時には下品な笑みぐらい浮かべてもいいのであるよ。
いい思い出が出来たじゃないか。
まあ、僕に釣れたのは木っ端岩魚ばかりであるがね。
さて。
この釣果は、師匠が聞けば最高に面白がるパターンに違いない。
いい土産話が出来た。
尺二本の竿頭は下戸である。
代わりに僕が祝杯を上げてやる。
結局、雨は降らなかったネ。
2022年08月16日
釣り師が寄り付かない沢には何かある
八月中旬。
何をやってもダメである。
それならダメ元で、初めての沢に出向いて魚影の有無や遡行の難易度などの確認作業をした方が建設的ではないだろうか。
ダメ元ではあるが投げやりではない。
そんな一日。
殆ど人に知られていない沢が地図上にある。
仮に知られていても、そうそうお手軽な場所でもなさそうである。
地形や周辺環境から察するところ、満更溪魚がいないわけでもなさそうに思える。
さて、それなら行こうか。
草いきれは夏の季語ではあるが僕は嫌いである。
さらに言うと、人いきれはもっとイヤである。

B場ちゃんは初めて入る沢にはとりわけ深い関心を示す。
地道な努力を惜しまず、結果を謙虚に受け止める男である。
口に出さないだけで冒険心に溢れているに違いない。
相変わらず咥え煙草ではあるが、クマ除けくらいにはなると思いたい。
大抵の場合、人が入らないということは何か理由があると思わなければならない。
入渓に手間が掛かるとか、遡行しにくい地形とか、藪でサオが振りにくいとか、過去に誰かが怪我をしたとか、頻繁にクマが出るとか、一人じゃ怖いとか、疲れるとか。
そのようなことを言い出せばキリがない。
はっきり言って屁理屈である。
時には知恵を絞り、汗を流し、覇気を駆使して難局を乗り越えればいいのである。
覇気は別としても、せめて知恵と汗ぐらいは出せなければ渓谷で生き残ることは出来ない。
昨今の釣り師は、往年の釣り師と比較すると明らかに軟弱である。
その一方で講釈だけは実にご立派なのである。
しかも横文字が多い。
さらに言うと、近頃の若い奴等は言い訳ばかりしやがって、他人をあてにする傾向が強い。
そのようなことで良好な釣り場が得られると思ったら大間違いである。
楽をして成功の果実だけを享受しようとしても、そうは問屋が卸さないのである。
頭を使え、頭を。
などと、いちいち目くじらを立てる必要は無い。
聞くところによると、世の釣り師たちの大半は情報収集能力に長けていながら、機動力には欠けるそうなのである。
多少なりとも、僕たちに釣れる余地が残されているのはそのお蔭なのである。
いずれにせよ、クルマ横付けで釣りたければ釣り堀にでも行けばよろしい。
まあ、ただの試し釣りである。
気楽にやろう。
そのようなことを思いながら意気揚々と降り立ってみればどうであるか。


落石だらけ、倒木だらけ。
散々な荒れ沢である。
うっかりすると、前のめりに転んで顔面を怪我しちゃいそうである。
それ痛いらしいよ。
肝心の魚影であるが、廃墟の如しとでも言えばいいのだろうか。
季節的な悪条件を差し引いても浮世というものは世知辛い。
しかもこの沢は高低差が大きい。
アタリがなければただ辛いだけの強制労働である。


やがてガレ場が終わりナメ床に変わる。
岩盤の亀裂に小さな魚影を発見できたものの、毛鉤を食わせるのは容易ではない。
後にも先にも釣果はこれだけである。

この沢筋の源頭には箸置きぐらいの岩魚たちが細々と棲んでいることが確認できた。
とびきりの貧果ではあったけれど、釣り師の受け止め方なんて、その時の釣果次第でコロコロ変わるものである。
一度や二度の釣行で一概に決めつけてはいけないと思うところではあるが、この沢にまた出掛けて来ることは多分ないだろう思う。
痩せ岩魚が僕たちの毛鉤を弾いただけのことである。
わざわざ人に話す心算もない。
仮にであるが、もっと魚影が濃くて釣りやすい沢だったらどうだったろうか。
そのような穴場であったら尚更他人になど言えるわけがない。
僕たちは口が堅いのである。
ずいぶん山歩きが早くなったじゃないか。
待ってくれ。置いて行かれちゃいそうだ。

足を止めてこれが野イチゴだと教えられる。

枝豆だけでお腹一杯。
やっぱり夏バテかね。

何をやってもダメである。
それならダメ元で、初めての沢に出向いて魚影の有無や遡行の難易度などの確認作業をした方が建設的ではないだろうか。
ダメ元ではあるが投げやりではない。
そんな一日。
殆ど人に知られていない沢が地図上にある。
仮に知られていても、そうそうお手軽な場所でもなさそうである。
地形や周辺環境から察するところ、満更溪魚がいないわけでもなさそうに思える。
さて、それなら行こうか。
草いきれは夏の季語ではあるが僕は嫌いである。
さらに言うと、人いきれはもっとイヤである。
B場ちゃんは初めて入る沢にはとりわけ深い関心を示す。
地道な努力を惜しまず、結果を謙虚に受け止める男である。
口に出さないだけで冒険心に溢れているに違いない。
相変わらず咥え煙草ではあるが、クマ除けくらいにはなると思いたい。
大抵の場合、人が入らないということは何か理由があると思わなければならない。
入渓に手間が掛かるとか、遡行しにくい地形とか、藪でサオが振りにくいとか、過去に誰かが怪我をしたとか、頻繁にクマが出るとか、一人じゃ怖いとか、疲れるとか。
そのようなことを言い出せばキリがない。
はっきり言って屁理屈である。
時には知恵を絞り、汗を流し、覇気を駆使して難局を乗り越えればいいのである。
覇気は別としても、せめて知恵と汗ぐらいは出せなければ渓谷で生き残ることは出来ない。
昨今の釣り師は、往年の釣り師と比較すると明らかに軟弱である。
その一方で講釈だけは実にご立派なのである。
しかも横文字が多い。
さらに言うと、近頃の若い奴等は言い訳ばかりしやがって、他人をあてにする傾向が強い。
そのようなことで良好な釣り場が得られると思ったら大間違いである。
楽をして成功の果実だけを享受しようとしても、そうは問屋が卸さないのである。
頭を使え、頭を。
などと、いちいち目くじらを立てる必要は無い。
聞くところによると、世の釣り師たちの大半は情報収集能力に長けていながら、機動力には欠けるそうなのである。
多少なりとも、僕たちに釣れる余地が残されているのはそのお蔭なのである。
いずれにせよ、クルマ横付けで釣りたければ釣り堀にでも行けばよろしい。
まあ、ただの試し釣りである。
気楽にやろう。
そのようなことを思いながら意気揚々と降り立ってみればどうであるか。
落石だらけ、倒木だらけ。
散々な荒れ沢である。
うっかりすると、前のめりに転んで顔面を怪我しちゃいそうである。
それ痛いらしいよ。
肝心の魚影であるが、廃墟の如しとでも言えばいいのだろうか。
季節的な悪条件を差し引いても浮世というものは世知辛い。
しかもこの沢は高低差が大きい。
アタリがなければただ辛いだけの強制労働である。
やがてガレ場が終わりナメ床に変わる。
岩盤の亀裂に小さな魚影を発見できたものの、毛鉤を食わせるのは容易ではない。
後にも先にも釣果はこれだけである。
この沢筋の源頭には箸置きぐらいの岩魚たちが細々と棲んでいることが確認できた。
とびきりの貧果ではあったけれど、釣り師の受け止め方なんて、その時の釣果次第でコロコロ変わるものである。
一度や二度の釣行で一概に決めつけてはいけないと思うところではあるが、この沢にまた出掛けて来ることは多分ないだろう思う。
痩せ岩魚が僕たちの毛鉤を弾いただけのことである。
わざわざ人に話す心算もない。
仮にであるが、もっと魚影が濃くて釣りやすい沢だったらどうだったろうか。
そのような穴場であったら尚更他人になど言えるわけがない。
僕たちは口が堅いのである。
ずいぶん山歩きが早くなったじゃないか。
待ってくれ。置いて行かれちゃいそうだ。
足を止めてこれが野イチゴだと教えられる。
枝豆だけでお腹一杯。
やっぱり夏バテかね。
2022年08月11日
真夏の渓 釣り師の背中はモノを言う
八月や 六日 九日 十五日
敗戦の日が近い。
不戦の誓いを守るが如く渓魚たちは沈黙する。
国破れ 日輪焦土を灼きつける。
連日の容赦ない酷暑。
我が祖国では津々浦々で釣り師たちが路頭に迷う季節である。
この日、遠く鈴鹿の地から客人を迎える。
Kaz13さんである。
https://kaz13amago.naturum.ne.jp/

聞けば、日々釣り三昧に明け暮れており、しかも不漁知らず。
一回の釣行で渓魚を何十匹も釣りまくるという壮絶な隠居生活を実施中。
そのような御仁をだね。僕のような男が釣り場の案内をすることになっちゃったわけである。
しかもこの時期であるよ。
責任重大である。
もっと良い時期に来ればいいのに。
まあ、釣りまくるなどという大それたことは無理としても、型に拘わらず、渓魚の顔を拝むことができるだけでも御の字ではないだろうか。
さらに、比較的安全で肉体的苦痛を伴わない渓となると選択の余地は限られる。
どの道、渓魚を釣るには脚を使うことに変わりないがね。
時期も時期だし、型に拘らずに気楽にやりましょうなどと努めて控えめに言ってはみるものの、客人には泣き尺の二本や三本ぐらいは掛けてもらわないと僕が困る。
そこにB場ちゃんが加わる。

三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、この男が出してくる知恵は常に有益であり、日頃から大いに助けられてはいるけれど、その一方で絶え間なく発生させているのは副流煙である。
時には僕も煙草を喫うことがあるけれど、人の副流煙はイヤなものである。
まあ、人間蚊取り線香と思えばよろしい。
この時期に渓魚を掛けるのは決して楽な仕事ではない。
などと思いながら黙って見ていると、各人とも飽きない程度に毛鉤を食わせているようである。




まあ、腹に一物を抱えていそうなこの面子。
どう転んでも釣果ゼロということは無いにしても、日頃から釣れる習慣を身に付けておかないとこうはいかない。
逆に、釣れない釣りに慣れてしまうと、釣れなくて当たり前になっちゃうようである。


世間では自分の顔に責任を持てということになっているようであるが、釣り師にとって顔などはどうでもよろしい。
背中に責任を持つべきである。
後ろ姿には釣り師としての人間性が顕れる。

そのようなわけで、僕は人様が釣っているところを黙って観察するけれど、自身の釣り姿を見られるのはイヤなのである。
下流から追いつかれて背後を取られるようでは源流釣り師の恥だとさえ思う。
さて。
僕の釣果はどうか。
人様には釣果を尋ねても、自身の釣果は知られたくないのが釣り師というものである。
煙草を喫い過ぎちゃった。
胸が焼けるネ。

一風呂浴びて帰ろう。
敗戦の日が近い。
不戦の誓いを守るが如く渓魚たちは沈黙する。
国破れ 日輪焦土を灼きつける。
連日の容赦ない酷暑。
我が祖国では津々浦々で釣り師たちが路頭に迷う季節である。
この日、遠く鈴鹿の地から客人を迎える。
Kaz13さんである。
https://kaz13amago.naturum.ne.jp/
聞けば、日々釣り三昧に明け暮れており、しかも不漁知らず。
一回の釣行で渓魚を何十匹も釣りまくるという壮絶な隠居生活を実施中。
そのような御仁をだね。僕のような男が釣り場の案内をすることになっちゃったわけである。
しかもこの時期であるよ。
責任重大である。
もっと良い時期に来ればいいのに。
まあ、釣りまくるなどという大それたことは無理としても、型に拘わらず、渓魚の顔を拝むことができるだけでも御の字ではないだろうか。
さらに、比較的安全で肉体的苦痛を伴わない渓となると選択の余地は限られる。
どの道、渓魚を釣るには脚を使うことに変わりないがね。
時期も時期だし、型に拘らずに気楽にやりましょうなどと努めて控えめに言ってはみるものの、客人には泣き尺の二本や三本ぐらいは掛けてもらわないと僕が困る。
そこにB場ちゃんが加わる。
三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、この男が出してくる知恵は常に有益であり、日頃から大いに助けられてはいるけれど、その一方で絶え間なく発生させているのは副流煙である。
時には僕も煙草を喫うことがあるけれど、人の副流煙はイヤなものである。
まあ、人間蚊取り線香と思えばよろしい。
この時期に渓魚を掛けるのは決して楽な仕事ではない。
などと思いながら黙って見ていると、各人とも飽きない程度に毛鉤を食わせているようである。
まあ、腹に一物を抱えていそうなこの面子。
どう転んでも釣果ゼロということは無いにしても、日頃から釣れる習慣を身に付けておかないとこうはいかない。
逆に、釣れない釣りに慣れてしまうと、釣れなくて当たり前になっちゃうようである。
世間では自分の顔に責任を持てということになっているようであるが、釣り師にとって顔などはどうでもよろしい。
背中に責任を持つべきである。
後ろ姿には釣り師としての人間性が顕れる。
そのようなわけで、僕は人様が釣っているところを黙って観察するけれど、自身の釣り姿を見られるのはイヤなのである。
下流から追いつかれて背後を取られるようでは源流釣り師の恥だとさえ思う。
さて。
僕の釣果はどうか。
人様には釣果を尋ねても、自身の釣果は知られたくないのが釣り師というものである。
煙草を喫い過ぎちゃった。
胸が焼けるネ。
一風呂浴びて帰ろう。
2022年07月27日
渓魚の機嫌が悪くても 無理を承知で釣りに行く
先週の釣行では渾身の大技を炸裂させてはみたものの、持てる覇気の一切合財を使い切っちゃって、ピクリとも動けなかった数日間。
盛んなる釣り旅を終えた安堵感はいいとしても、その裏で味わうことになったのが、これまで出来ていたことが出来なくなっていく喪失感。
寄る年波には口を挟む余地が無い。
あまりにも渓流域の釣りに偏り過ぎた人生を送ってしまった釣り師には、全く潰しが効かない老後が目前に迫っていることと思われる。
まあいい。
過ぎてしまったことは仕方が無い。
そんな一抹の寂しさを味わいながらも、歩き慣れた渓ぐらいしか僕には行くところが無い。
不器用な男なのである。

季節は土用隠れ。
けれど、それを理由にただサオを振っているだけで幸せになれるほど僕は善人ではない。
渓魚がいなければ仕方がないけれど、いるとわかっているから来ているのである。
釣りにくいことは重々承知、それでも釣り師は魚を掛けなければならない。



永遠に幸せになりたければ釣りを覚えればいいという説には一理あるとは思うけれど、現実的にはかなり無理がある。
総合的かつ俯瞰的見解に基づけば適切ではないと僕は思う。
釣りを覚えた時点で不幸のスパイラルから抜け出せなくなる可能性が極めて高いことを覚悟するべきである。
幸せな人生を送りたければ釣りなどに手を染めるべきではない。
もう遅いがね。


僕はヒグラシの声は好きであるが、ミンミンゼミやアブラゼミの声を聞かされるのはイヤである。
陽当りの悪い谷底でとぐろを巻いている釣り師である。
考えることなんて、せいぜいそんなところだと思うよ。


盛んなる釣り旅を終えた安堵感はいいとしても、その裏で味わうことになったのが、これまで出来ていたことが出来なくなっていく喪失感。
寄る年波には口を挟む余地が無い。
あまりにも渓流域の釣りに偏り過ぎた人生を送ってしまった釣り師には、全く潰しが効かない老後が目前に迫っていることと思われる。
まあいい。
過ぎてしまったことは仕方が無い。
そんな一抹の寂しさを味わいながらも、歩き慣れた渓ぐらいしか僕には行くところが無い。
不器用な男なのである。
季節は土用隠れ。
けれど、それを理由にただサオを振っているだけで幸せになれるほど僕は善人ではない。
渓魚がいなければ仕方がないけれど、いるとわかっているから来ているのである。
釣りにくいことは重々承知、それでも釣り師は魚を掛けなければならない。
永遠に幸せになりたければ釣りを覚えればいいという説には一理あるとは思うけれど、現実的にはかなり無理がある。
総合的かつ俯瞰的見解に基づけば適切ではないと僕は思う。
釣りを覚えた時点で不幸のスパイラルから抜け出せなくなる可能性が極めて高いことを覚悟するべきである。
幸せな人生を送りたければ釣りなどに手を染めるべきではない。
もう遅いがね。
僕はヒグラシの声は好きであるが、ミンミンゼミやアブラゼミの声を聞かされるのはイヤである。
陽当りの悪い谷底でとぐろを巻いている釣り師である。
考えることなんて、せいぜいそんなところだと思うよ。
2022年07月20日
泣く子も黙る源流釣行
野を越え山を越え、一体何をするのかと言えばただの釣りである。
源流域では釣りに費やす時間より歩き続ける時間の方が長い。
そこまでしなければ釣れないのかと言われると返す言葉がない。
本末転倒な釣りであるが、源流志向の釣り師が納得できる最終形態のうちの一つでもあると思う。

釣りへの期待に悶え苦しむ道中は長くて辛い。
それがテン場に着いた瞬間に肉体的苦痛からの開放感と既に釣果が約束されている安心感で身も心も軽くなる。
釣りに来ておきながら、釣りなんかどうでもよくなっちゃう。



釣り自体は難しく考える必要は全くない。
釣果を決定する権限は釣り師の側にある。
釣りたいだけ釣ればいいのであって、帳尻を合わせることはいつでも出来る。
ただ、物事には例外が付き物で、稀に渓魚も人を選ぶようである。



僕のモットーは「死して屍拾う者無し」であるが、相手次第では「旅は道連れ世は情け」にも柔軟に対応しちゃうのである。
今回の釣り旅は僕にしては珍しく相方がいて、咥え煙草のB場ちゃんである。

この男については多くを語る必要はない。
下戸であるがね。



単独行では考えなくてもいいけれど、源流行の相方は慎重に選任しなければならない。
テン場での夜も含めると相当に長い時間を共に過ごすことになるわけである。
下戸でありながらほんの撫でる程度に芋焼酎に付き合わせてしまったけれど、そこを補って余りある信頼関係を構築する能力をこの男は携えている。
しかも、相手はこの僕である。
なかなか出来ることじゃないと思うよ。

この際だから、僕としてはどこまでが副流煙でどこからが焚き火の煙なのかはっきりさせておきたいところだけれど、まあいい。
煙草ぐらい、心おきなく喫うがいい。


さて。
この地で空白の歴史を紡ぎ続けてきた唯一の釣り師が僕である。
そんなわけで、万物の声とでも言うのだろうか、時折その類の何かが聞こえてくることがあって、過去にこの地で繰り広げられた大職漁時代の実態が見えてきちゃったのである。
古の職漁師諸氏におかれては、伝統毛鉤による卓越した釣技を駆使し、竿一本で渓谷を制覇したように思われがちであるが、彼等は本職である。
漁獲がなければ話にならない。
渓魚がとびきり高値で売れた時代である。
置き鉤、夜突き、追い込み、その他諸々、漁獲のためにはあらゆる手段を尽くしたに違いないと僕は思う。
漁場の確保や独占は利権に直結する死活問題である。
縄張り意識は現代の釣り師と比べ物になるわけがなく、誰も見ていない山中でのことであるから、ちょっとしたせめぎ合いが殺し合いに発展したとしても不思議ではない。
実名を挙げることは差し控えるけれど、わざと川の中を歩いて他人の漁獲を低く押さえ込むなど日常茶飯事であったに違いない。
職漁師のすなどりに卑怯なんて言葉は無い。
結果のみが重要なのである。
各地には、後世に名を残し、没後も崇められている高名な職漁師が少なくないようであるが、実のところは山賊と紙一重であったのではないかというのが僕の個人的な所見である。
一般的に、自己中心的な人間というものは正論を言われると怒るものである。
加えて、厳格な上下関係を作りがちであるから、次世代が負の側面を語り継ぐことは許されなかったに違いない。
ごく稀にではあるが、近年においても自然保護を逆手に取った反社会的勢力に類似する存在を輩出する土壌であった可能性も排除できないのではないだろうか。




いずれにせよ、幾多の紆余曲折を経て職漁師たちは絶滅した。
夏草や兵どもが夢の跡。
全くだ。松尾芭蕉を褒めてやる。
この渓が変わってしまうことはないだろうけれど、源流釣り師の現役寿命は短い。
次世代には歴史の語り手は現れそうにない。
今さら現れても僕が困る。
我儘を言うようだけれど、こんな所までやってきて人様に釣り姿を見られるのはイヤである。

この渓で一番自由な存在。
この地で僕が自問自答を続けてきた主題である。
我ここに至る・・・・・・。
などと、いちいち能書きを並べ立てているような暇があったら黙々と釣っていた方がよろしい。
この釣りは忙しい。
ほんの数秒が一匹の渓魚に変わる。
時間が勿体ない。
まあ、毎度のことながら、五体満足で生還することが出来て何よりであるが。

源流域では釣りに費やす時間より歩き続ける時間の方が長い。
そこまでしなければ釣れないのかと言われると返す言葉がない。
本末転倒な釣りであるが、源流志向の釣り師が納得できる最終形態のうちの一つでもあると思う。
釣りへの期待に悶え苦しむ道中は長くて辛い。
それがテン場に着いた瞬間に肉体的苦痛からの開放感と既に釣果が約束されている安心感で身も心も軽くなる。
釣りに来ておきながら、釣りなんかどうでもよくなっちゃう。
釣り自体は難しく考える必要は全くない。
釣果を決定する権限は釣り師の側にある。
釣りたいだけ釣ればいいのであって、帳尻を合わせることはいつでも出来る。
ただ、物事には例外が付き物で、稀に渓魚も人を選ぶようである。
僕のモットーは「死して屍拾う者無し」であるが、相手次第では「旅は道連れ世は情け」にも柔軟に対応しちゃうのである。
今回の釣り旅は僕にしては珍しく相方がいて、咥え煙草のB場ちゃんである。
この男については多くを語る必要はない。
下戸であるがね。
単独行では考えなくてもいいけれど、源流行の相方は慎重に選任しなければならない。
テン場での夜も含めると相当に長い時間を共に過ごすことになるわけである。
下戸でありながらほんの撫でる程度に芋焼酎に付き合わせてしまったけれど、そこを補って余りある信頼関係を構築する能力をこの男は携えている。
しかも、相手はこの僕である。
なかなか出来ることじゃないと思うよ。
この際だから、僕としてはどこまでが副流煙でどこからが焚き火の煙なのかはっきりさせておきたいところだけれど、まあいい。
煙草ぐらい、心おきなく喫うがいい。
さて。
この地で空白の歴史を紡ぎ続けてきた唯一の釣り師が僕である。
そんなわけで、万物の声とでも言うのだろうか、時折その類の何かが聞こえてくることがあって、過去にこの地で繰り広げられた大職漁時代の実態が見えてきちゃったのである。
古の職漁師諸氏におかれては、伝統毛鉤による卓越した釣技を駆使し、竿一本で渓谷を制覇したように思われがちであるが、彼等は本職である。
漁獲がなければ話にならない。
渓魚がとびきり高値で売れた時代である。
置き鉤、夜突き、追い込み、その他諸々、漁獲のためにはあらゆる手段を尽くしたに違いないと僕は思う。
漁場の確保や独占は利権に直結する死活問題である。
縄張り意識は現代の釣り師と比べ物になるわけがなく、誰も見ていない山中でのことであるから、ちょっとしたせめぎ合いが殺し合いに発展したとしても不思議ではない。
実名を挙げることは差し控えるけれど、わざと川の中を歩いて他人の漁獲を低く押さえ込むなど日常茶飯事であったに違いない。
職漁師のすなどりに卑怯なんて言葉は無い。
結果のみが重要なのである。
各地には、後世に名を残し、没後も崇められている高名な職漁師が少なくないようであるが、実のところは山賊と紙一重であったのではないかというのが僕の個人的な所見である。
一般的に、自己中心的な人間というものは正論を言われると怒るものである。
加えて、厳格な上下関係を作りがちであるから、次世代が負の側面を語り継ぐことは許されなかったに違いない。
ごく稀にではあるが、近年においても自然保護を逆手に取った反社会的勢力に類似する存在を輩出する土壌であった可能性も排除できないのではないだろうか。
いずれにせよ、幾多の紆余曲折を経て職漁師たちは絶滅した。
夏草や兵どもが夢の跡。
全くだ。松尾芭蕉を褒めてやる。
この渓が変わってしまうことはないだろうけれど、源流釣り師の現役寿命は短い。
次世代には歴史の語り手は現れそうにない。
今さら現れても僕が困る。
我儘を言うようだけれど、こんな所までやってきて人様に釣り姿を見られるのはイヤである。
この渓で一番自由な存在。
この地で僕が自問自答を続けてきた主題である。
我ここに至る・・・・・・。
などと、いちいち能書きを並べ立てているような暇があったら黙々と釣っていた方がよろしい。
この釣りは忙しい。
ほんの数秒が一匹の渓魚に変わる。
時間が勿体ない。
まあ、毎度のことながら、五体満足で生還することが出来て何よりであるが。
2022年07月11日
夏岩魚 心頭滅却したところで暑いことには変わりない
僕は寒さが嫌いであるが、暑さも嫌いである。
我儘を言うようだけれどイヤなものはイヤなのである。
オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリートというスタンダードナンバーがあるが、このような時に明るい表通りを歩けと言われても僕には無理である。
はっきり言って命に拘わる。
因みに、ルイ・アームストロングがサッチモと呼ばれていたことを知ったのは昨年のことである。
参議院選挙投票日。
早々と期日前投票を済ませた岩魚釣り師は単車に乗ってヨロヨロと陽当りの悪い谷底へ堕ちていくのである。

渇水気味の水量。
ぎりぎり許容範囲の水温。

良型が期待できる日柄ではなさそうである。
小魚天国に違いない。
釣る前から少し先の未来が見えてしまうのは釣り師として悲しいことである。
案の定、夥しい中小の岩魚たちから一斉攻撃を受ける。



釣っておいて言うのも何だけれど、数の力にものを言わせるのが民主主義の根幹ということになっているようである。
政界関係者は数の論理に頼ればいいだろうけれど、釣り師は数を釣ればいいってもんじゃないと僕は思う。
渓魚たちの声なき声に丁寧に耳を傾けなければならない。



相も変わらず変わり映えのしない岩魚の写真しか掲載することができないのは気が引けるけれど、僕には岩魚ぐらいしか釣れないのだから仕方がない。
そのあたり、一匹一匹との出会いを大切にしていると思っていただけないだろうか。



暑い暑いと言いながら、わざわざ熱い湯に立ち寄ったのはわけがある。

ほらね、五臓六腑に沁みわたる。

我儘を言うようだけれどイヤなものはイヤなのである。
オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリートというスタンダードナンバーがあるが、このような時に明るい表通りを歩けと言われても僕には無理である。
はっきり言って命に拘わる。
因みに、ルイ・アームストロングがサッチモと呼ばれていたことを知ったのは昨年のことである。
参議院選挙投票日。
早々と期日前投票を済ませた岩魚釣り師は単車に乗ってヨロヨロと陽当りの悪い谷底へ堕ちていくのである。
渇水気味の水量。
ぎりぎり許容範囲の水温。
良型が期待できる日柄ではなさそうである。
小魚天国に違いない。
釣る前から少し先の未来が見えてしまうのは釣り師として悲しいことである。
案の定、夥しい中小の岩魚たちから一斉攻撃を受ける。
釣っておいて言うのも何だけれど、数の力にものを言わせるのが民主主義の根幹ということになっているようである。
政界関係者は数の論理に頼ればいいだろうけれど、釣り師は数を釣ればいいってもんじゃないと僕は思う。
渓魚たちの声なき声に丁寧に耳を傾けなければならない。
相も変わらず変わり映えのしない岩魚の写真しか掲載することができないのは気が引けるけれど、僕には岩魚ぐらいしか釣れないのだから仕方がない。
そのあたり、一匹一匹との出会いを大切にしていると思っていただけないだろうか。
暑い暑いと言いながら、わざわざ熱い湯に立ち寄ったのはわけがある。
ほらね、五臓六腑に沁みわたる。
2022年06月29日
木っ端岩魚に弾かれて 尺岩魚には逃げられた
身体に堪える連日の暑さ。
聞けば予定外の梅雨明けらしい。
この類の急激な気候の変動は溪魚が機嫌を損ねる典型的なパターンである。
そうは言っても、何も釣れませんでしたでは済まされないのが岩魚釣り師の辛い人生。
案の定、寄ってくるのは木っ端岩魚。
保育士になっていれば、僕の人生はさぞ充実したものになっていたに違いない。



しかも、これだけ弾かれ続けた暁にはスレ掛かりでも贅沢を言える立場では無さそうである。



さて、事件というものは往々にしてこのような閉塞感の中で起きるものである。
ゆらりと出てきた大岩魚。
寄せて取ったのはいいけれど、稀に見る立派な魚体である。
いちいちスケールを当てるのは野暮の極みなどと思いながら、写真を撮る前に逃げられちゃった。
面目無いとしか言いようがない。
以前の投稿で、ランディング・ネットを散々こきおろしたツケであろうか。
いずれにせよ、釣り師として不徳の致すところであるが、口に毛鉤を引っ掛けた大岩魚がここに付いていることを確認できたわけである。
いずれこれを釣る機会が巡って来るに違いない。
とは言え、証拠写真が無いわけである。
ゆえに、この大岩魚の真偽に関しては日頃の信用が問われる局面であるが、申し開きをする心算は毛頭ない。

などど、太々しく開き直って煙草を喫うのであるが、逃げられても逃げられなくても尺超えを見ちゃうと何故か複雑な心境にさせられる。
尺越えの付き場で未練がましく粘った結果の身代わり。

この日の良型。


負け惜しみを言うと、さっきの尺越えよりよく引いたような気がする。
仕方がない、これぐらいで勘弁してやるか。
ハルゼミの声に時折ヒグラシの声が混じってきたね。


聞けば予定外の梅雨明けらしい。
この類の急激な気候の変動は溪魚が機嫌を損ねる典型的なパターンである。
そうは言っても、何も釣れませんでしたでは済まされないのが岩魚釣り師の辛い人生。
案の定、寄ってくるのは木っ端岩魚。
保育士になっていれば、僕の人生はさぞ充実したものになっていたに違いない。
しかも、これだけ弾かれ続けた暁にはスレ掛かりでも贅沢を言える立場では無さそうである。
さて、事件というものは往々にしてこのような閉塞感の中で起きるものである。
ゆらりと出てきた大岩魚。
寄せて取ったのはいいけれど、稀に見る立派な魚体である。
いちいちスケールを当てるのは野暮の極みなどと思いながら、写真を撮る前に逃げられちゃった。
面目無いとしか言いようがない。
以前の投稿で、ランディング・ネットを散々こきおろしたツケであろうか。
いずれにせよ、釣り師として不徳の致すところであるが、口に毛鉤を引っ掛けた大岩魚がここに付いていることを確認できたわけである。
いずれこれを釣る機会が巡って来るに違いない。
とは言え、証拠写真が無いわけである。
ゆえに、この大岩魚の真偽に関しては日頃の信用が問われる局面であるが、申し開きをする心算は毛頭ない。
などど、太々しく開き直って煙草を喫うのであるが、逃げられても逃げられなくても尺超えを見ちゃうと何故か複雑な心境にさせられる。
尺越えの付き場で未練がましく粘った結果の身代わり。
この日の良型。
負け惜しみを言うと、さっきの尺越えよりよく引いたような気がする。
仕方がない、これぐらいで勘弁してやるか。
ハルゼミの声に時折ヒグラシの声が混じってきたね。
2022年06月20日
尺が出る ツキノワグマが去っていく
この日の入渓は昼下がり。
何だか暑いね。
溪に降り立った僕を高台から見下ろしながら出迎えてくれたのはツキノワグマの成獣である。
つい目が合っちゃった。
と思ったのは僕の方で、聞く所によると彼らの視力はけっこう弱いそうである。
けれど、なにか感じるところがあったのだろう。
僕がカメラを取り出す間も無く、尾根筋を登って見えなくなってしまった。
僕としては尺上岩魚よりツキノワグマの写真が撮りたかった。
などと言ったら岩魚たちに怒られるだろうか。
互いに覇気を使ったわけではない。
釣り師としては、平和的外交を実践したこの大型哺乳類の姿勢を高く評価するところである。
さしあたり、プーチンあたりにはクマの爪の垢でも煎じて飲ませておけばよろしい。
ついでと言ってはナンだけれど、来月に控えた参議院選挙の論点を鑑み、アレやコレにも飲ませてやりたいところである。
そのようなことを漠然と思いながら岩魚を釣る。


さて。
前回の釣行の折、某所に打ち捨てられていたランディング・ネットである。
物は試し、これで岩魚を掬って写真を撮ってみたらどうであるか。

残念ながら僕が撮ると何故か釈然としない写真になっちゃうのである。
これは岩魚やネット自体が悪いわけではない。
僕に写真を撮るセンスが備わっていないことが問題なのである。
次に登場するのは曲がりなりにも尺上であるが、このようにどこか冴えない写真を撮られたとあっては尺岩魚も立つ瀬がない。
釣り師として不徳の致すところである。

拾ったネットを使っておきながらこんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、魚が掛かる度にいちいち掬っていては手間が掛かって仕方がない。
サクッと素手で取っちまった方が仕事が早い。
だからというわけではないけれど、このネットの不法投棄に関わった向きにおかれては、画面左のオーナーにメッセージというところをクリックして申し出るとよろしい。
適正な審査に基づき、速やかに返還する用意がある。
その際には、釣り場に物を捨てた事に対するささやかな説教と、仮に無券者であった場合には相応のお仕置きを覚悟して頂く必要があるがね。
申し込み期限は2022年7月末日までということでどうであろうか。




帰路。
斜面に取り付きながら、先刻にクマが登っていった尾根を横目で眺める。

夕立は湯舟に立ち寄ってやり過ごす。

この日の締めは信州サーモンである。
米合衆国大統領のジョー・バイデンが来日した折に、この魚のムニエルが膳に供されたそうである。
和の心に基づいて釣行を終えた岩魚釣り師は、腹身に下味をつけて仕立てられた松前漬けによく冷えた生酒を合わせるのである。

僕には作ることができないけれど、要するにそういうことなのである。
何だか暑いね。
溪に降り立った僕を高台から見下ろしながら出迎えてくれたのはツキノワグマの成獣である。
つい目が合っちゃった。
と思ったのは僕の方で、聞く所によると彼らの視力はけっこう弱いそうである。
けれど、なにか感じるところがあったのだろう。
僕がカメラを取り出す間も無く、尾根筋を登って見えなくなってしまった。
僕としては尺上岩魚よりツキノワグマの写真が撮りたかった。
などと言ったら岩魚たちに怒られるだろうか。
互いに覇気を使ったわけではない。
釣り師としては、平和的外交を実践したこの大型哺乳類の姿勢を高く評価するところである。
さしあたり、プーチンあたりにはクマの爪の垢でも煎じて飲ませておけばよろしい。
ついでと言ってはナンだけれど、来月に控えた参議院選挙の論点を鑑み、アレやコレにも飲ませてやりたいところである。
そのようなことを漠然と思いながら岩魚を釣る。
さて。
前回の釣行の折、某所に打ち捨てられていたランディング・ネットである。
物は試し、これで岩魚を掬って写真を撮ってみたらどうであるか。
残念ながら僕が撮ると何故か釈然としない写真になっちゃうのである。
これは岩魚やネット自体が悪いわけではない。
僕に写真を撮るセンスが備わっていないことが問題なのである。
次に登場するのは曲がりなりにも尺上であるが、このようにどこか冴えない写真を撮られたとあっては尺岩魚も立つ瀬がない。
釣り師として不徳の致すところである。
拾ったネットを使っておきながらこんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、魚が掛かる度にいちいち掬っていては手間が掛かって仕方がない。
サクッと素手で取っちまった方が仕事が早い。
だからというわけではないけれど、このネットの不法投棄に関わった向きにおかれては、画面左のオーナーにメッセージというところをクリックして申し出るとよろしい。
適正な審査に基づき、速やかに返還する用意がある。
その際には、釣り場に物を捨てた事に対するささやかな説教と、仮に無券者であった場合には相応のお仕置きを覚悟して頂く必要があるがね。
申し込み期限は2022年7月末日までということでどうであろうか。
帰路。
斜面に取り付きながら、先刻にクマが登っていった尾根を横目で眺める。
夕立は湯舟に立ち寄ってやり過ごす。
この日の締めは信州サーモンである。
米合衆国大統領のジョー・バイデンが来日した折に、この魚のムニエルが膳に供されたそうである。
和の心に基づいて釣行を終えた岩魚釣り師は、腹身に下味をつけて仕立てられた松前漬けによく冷えた生酒を合わせるのである。
僕には作ることができないけれど、要するにそういうことなのである。
2022年06月15日
地道にコツコツ岩魚を釣る
梅雨入りである。
近年、梅雨というものは大地を潤す恵みの雨ではなく、甚大な災害をもたらす警戒すべき対象にされてしまった感がある。
現代社会に生きる詩人、歌人、俳人たちはこの変異した季節の風物詩をどのように扱うのだろうか。
本降りの翌朝。
釣り師にとっても、昨今の梅雨は先行きの読めない相場のようであるが、僕は投資家ではない。その日暮らしの慎ましき岩魚釣り師である。
時節柄というワケではないけれど、ただ釣りに行けば良いってもんじゃなくて、落石や崩落、急激な出水などが起きにくい地相の渓を選ばなくてはならない。
聞くところによると、釣り欲に流されるまま、分不相応な領域に踏み込んだ挙句、取り返しのつかないことになった経験の持ち主はちらほらといるらしいのであるが、一献の酒のお伽にもなりゃしない。
僕は会ったことはないけれど。

さて、気分を変えよう。
まあ、この渓であればまず死ぬようなことはあるまい。
などと思いつつ、何の変哲もない釣り師が、何の変哲もない岩魚を黙々と釣る。



底に張り付いた魚を一匹ずつ剥がしながら拾い歩く作業は非効率の極みであるが、文句を言わずに釣り続けていればいずれ良いことがあると思いたい。
などと、努めて謙虚なことを呟いた矢先に尺っぽい良型を釣り落とす。
やれやれ。



枝に引っ掛かっていた毛鉤を発見。
今夜は老眼鏡をかけて詳細な精査の上、この毛鉤がどのような意図で巻かれたものであるか徹底的に検証する必要がある。
このような所までやって来るぐらいであるから、大方の察しは付くけれど、これを巻いた釣り師の氏素性から人間性に到るまで、この毛鉤は僕に詳しく供述をすることと思われる。
これは良い酒の肴になるネ。
流木に引っ掛かっていたランディング・ネットを発見。
僕はネットを持ち歩くことがないから詳しいことは語れないけれど、握りに銘木などを使ってあるようで、なかなかの手の込みようである。
さらに、とりわけ小ぶりに作ってあるあたり、ほんの小魚であっても、せめて写真上では大きく見せてやろうとでも言いたげな思惑が見て取れる。
いずれにせよ、釣り場に物を捨てるようでは釣り師失格である。
僕にとっては邪魔であるが、仕方無く回収せざるを得ない。



地道にコツコツと釣り続けた一日。

実を言うと、けっこう寒かったのであるよ。


近年、梅雨というものは大地を潤す恵みの雨ではなく、甚大な災害をもたらす警戒すべき対象にされてしまった感がある。
現代社会に生きる詩人、歌人、俳人たちはこの変異した季節の風物詩をどのように扱うのだろうか。
本降りの翌朝。
釣り師にとっても、昨今の梅雨は先行きの読めない相場のようであるが、僕は投資家ではない。その日暮らしの慎ましき岩魚釣り師である。
時節柄というワケではないけれど、ただ釣りに行けば良いってもんじゃなくて、落石や崩落、急激な出水などが起きにくい地相の渓を選ばなくてはならない。
聞くところによると、釣り欲に流されるまま、分不相応な領域に踏み込んだ挙句、取り返しのつかないことになった経験の持ち主はちらほらといるらしいのであるが、一献の酒のお伽にもなりゃしない。
僕は会ったことはないけれど。
さて、気分を変えよう。
まあ、この渓であればまず死ぬようなことはあるまい。
などと思いつつ、何の変哲もない釣り師が、何の変哲もない岩魚を黙々と釣る。
底に張り付いた魚を一匹ずつ剥がしながら拾い歩く作業は非効率の極みであるが、文句を言わずに釣り続けていればいずれ良いことがあると思いたい。
などと、努めて謙虚なことを呟いた矢先に尺っぽい良型を釣り落とす。
やれやれ。
枝に引っ掛かっていた毛鉤を発見。
今夜は老眼鏡をかけて詳細な精査の上、この毛鉤がどのような意図で巻かれたものであるか徹底的に検証する必要がある。
このような所までやって来るぐらいであるから、大方の察しは付くけれど、これを巻いた釣り師の氏素性から人間性に到るまで、この毛鉤は僕に詳しく供述をすることと思われる。
これは良い酒の肴になるネ。
流木に引っ掛かっていたランディング・ネットを発見。
僕はネットを持ち歩くことがないから詳しいことは語れないけれど、握りに銘木などを使ってあるようで、なかなかの手の込みようである。
さらに、とりわけ小ぶりに作ってあるあたり、ほんの小魚であっても、せめて写真上では大きく見せてやろうとでも言いたげな思惑が見て取れる。
いずれにせよ、釣り場に物を捨てるようでは釣り師失格である。
僕にとっては邪魔であるが、仕方無く回収せざるを得ない。
地道にコツコツと釣り続けた一日。
実を言うと、けっこう寒かったのであるよ。