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2019年04月29日

状況証拠の積み重ね

せっかくの大型連休であるから人様には釣りに出掛けるように勧めておきながら、僕は一人で里山をうろついたりするのである。
本音を言えば渓魚を掛けたいのは山々だけれど、敢えてそこを堪える自己管理能力。
渓魚たちがいちいち人間社会の都合に合わせてくれれば誰も苦労しないのである。

各地の釣り場は盛期を迎え、良型がサオをしならせているようであるが、ウジウジとGWを過ごさなければならないのは雪深い高地の釣り師に課せられた義務である。



誰も知らないカタクリの小さな群生地。






僕とってこの花は状況証拠である。

ただ闇雲に釣りに行けばいいってもんじゃなくて、入渓時期を見極める指標なのである。


北アルプスなどに表れる雪形を畑仕事の目安にした農民の知恵をご存知だろうか。


わかりやすく説明すると。
残念ながら僕は不倫や浮気の類には無縁であるけれど、その筋に通じた御仁におかれては、とりわけ状況証拠に気を使っておられるのではないかと思うところである。
状況証拠というものは一つでは決め手に欠けるけれど、いくつも積み重ねると疑惑が確信に変わっちゃうらしいのである。
うまく言えないけれど、要するにそういうことなのである。


カタクリたちが持たせてくれるお土産である。



これも重要な状況証拠。

この芽を摘むにあたっては労りというものがなければならない。
そのせいか年々着実に木が伸びるから、意に反して僕の手が届かなくなってきちゃう。
まあいい。


遅咲きの桜の古木も状況証拠なのである。
ただボーッと花を眺めていてはいけないのである。







この日の収穫は思いのほか少なかったけれど不平不満を言ってはならない。



お土産というものは奪い取るものではない。
ありがたく頂戴するものである。
そのあたりの振舞いには人としての品格が如実に表れるものである。
とりわけ釣り師と山菜採りは肝に銘じなければならない。


次の状況証拠は何が出て来るだろう。

ギョウジャニンニクとウルイあたりだろうか。


昼下がりの日帰り温泉はなぜかガラ空き。
どこか気が引ける。






  


Posted by SFM at 09:03Comments(2)釣り師の日常

2019年04月25日

釣り師の歴史探訪 第十一弾 真田信之の墓

真田信之の墓である。
このところ真田家に関わる史跡が続くけれど、これを抜きにして北信濃の歴史は語れないらしいのであるが、僕の場合は不勉強だから、真田家であろうと無かろうと歴史を語ることはできない。
付け焼刃を振り回すような発言は控えなければならない。

この人の墓は何故か二箇所ある。
一箇所は有料でもう一箇所はタダである。
僕が立ち寄ったのはタダの方である。























ここは以前に掲載した山本勘助の墓に極めて近いことが特徴である。

少し大袈裟に言うと、G・ルーミスやセージあたりのサオを持ち出してきて、おもむろにシュートなどをしたら、ひょっとして届いちゃうんじゃないかと思うぐらいご近所なのであるが、そんなキャスティングが出来れば誰も苦労などしないのであるから、やはり釣り場でも付け焼刃はよろしくないのである。



さて、大型連休。
退位、即位を水面下で感慨深く眺めるのは国内で異常繁殖したブルーギルの末裔たちであると察するところである。
山深い渓の雪代で魚体を磨く在来の渓魚たちにとっては他人事に違いない。

ご聡明な釣り師諸氏におかれては、溪の新緑を愉しんでいただきたいところである。
  


Posted by SFM at 21:04Comments(4)釣り師の日常

2019年04月21日

逆転の発想

目には満開の桜。
瞼の裏には流れる渓水。



気持ちは溪に靡くけれど日中の陽気に惑わされてはならない。
これは騙しである。
水面下の活性はそう甘くない。
ここで焦ったら負けである。
ただ釣りに行けばいいってもんじゃない。
仕掛けるタイミングは入念に見極めなければならない。


芝生の上で出来ないことを釣り場でやろうとしても無理である。
実戦の前に必要なことは訓練である。




さて、釣果ばかりに振り回される釣り師の姿はお世辞にも品が良いとは思えないけれど、避けて通ることができないのも釣果である。

妬み嫉みが染みついて、口を開けば呪いを吐く。
仮に、そのように心が荒んだ釣り師がいたら速やかに適切な距離を置くことが肝心である。

ただし、愛すべき人格を備えていながら何故か釣果に恵まれない隣人がおられたら、ここは是非ともありがたくお付き合いをさせていただくべき大切な御仁であると僕は思う。


要するに。
穏やかなる人格者をよく観察し、にっこりと相槌などを打ちつつ、その実では逆のことをやれば人知れずいい釣果を得ることになる。
それが物事の理というものである。



余談であるが。
ついつい群集心理に流されて、目一杯の期待を込めて暖簾をくぐった蕎麦店。
運悪く、だらし無い蕎麦に出会ってしまった経験をお持ちの諸氏は少なくないと思うけれど、これは寧ろチャンスなのである。
不味いものにはそれなりの理由がある。
蕎麦に限ったことではないけれど、なぜ不味いのかを分析して、その逆方向に黙々と勤しむ方が賢い発想であると僕は思う。



酷評の拡散に精を出すことが近年の傾向のようではあるが、人生に失敗はつきものである。


失敗は小さく上手に収める。
そのあたり、釣り師の大切な技術であると僕は思いたい。



気温が上がると活性が上がり、どこからともなく湧いてくるのが花見客である。
やがて呑み喰いが始まると、貧富の差を歴然と見せつけられるに違いない。






加えて。
芝生の上のフライキャスターは何かにつけて不審者に思われがちである。

ここが引き際である。


師を訪ねて温泉に入ろうかね。

やれやれ。


  


Posted by SFM at 21:04Comments(0)釣り師の日常

2019年04月18日

釣り師の歴史探訪 第十弾 砥石城跡とその仲間たち

歴史小説に登場する砥石城は、麓を通りながら長年素通りをしていたけれど、この日はつい軽い気持ちで立ち寄っちゃったのである。

案内板によると城跡は一箇所ではなく四箇所あって、さらに、けっこう歩かなくてはならないようである。
まあいい。








軽い気持ちで歩き始めたところ、取り付きに据えてある石材に彫られた文言は穏やかではない。



まあいい。
どうにかなりはしないか。
腐っても岩魚釣り師である。


この櫓門、取って付けたような演出が過ぎる。
はっきり言って不要である。




松林や雑木林の尾根を登り続けるのであるが、軽登山の感覚が求められる。
道脇の表記などから察するところ、地元では登山道として扱われているようで、要するに、けっこう疲れるのである。








城跡直下にそれらしいところが出てきた。
おそらく、観光用に加工されたものではないだろうか。





砥石城跡から本城を抜けて枡形城跡までは快適な尾根歩きである。




















烏帽子岳。





帰路、ここで暫し思案である。
もう一つ、米山城跡がある。



この際である。
落としておかなければならない。










空気が乾燥するこの時期であるから、火気には細心の注意を払わなければならない。
これは狼煙ではなく、米山城跡から見つけてしまった山火事である。




このところの汗ばむような気候。
週末の楽しみにとっておきたかったけれど、桜の開花は待ってくれない。




それでも里山のお宝の足は遅い。







  


Posted by SFM at 20:01Comments(2)釣り師の日常

2019年04月14日

今はもう動けない釣り師たち

天川荘という温泉旅館は釣り師の隠し湯としたいところである。






この日に集った釣り師たちは、近年では個性豊かに身体的衰退が顕著なのである。
釣り場での足取りを思い浮かべるにつけ、どこか心許無いのはお互い様でもあるが。

奥深い溪の清冽な流れは不変であるけれど、釣り師は年を取る。
立場としては、釣り場を選ぶ側から、溪に選別され、ふるいにかけられる側になっちゃったのである。

具体的に言うと。
還暦間近の人生の先輩。
同世代ながら、孫の画像や動画を眺めては、もともと細い目をさらに細くするおじいちゃんなど。
多少の個人差はあるにしても、はっきり言って、わがままを言える年代ではないのである。

どれほどに技術を高めても、多額の費用をつぎ込んでも、月日の流れは平等である。

要するに、渓流域のアブラビレ族ばかりにそう固執せず、釣れりゃぁ何でもいいや的に、柔軟な方針転換が求められる時期にきているのではないだろうか。
成功体験は過去の話なのである。


そんな愉快な仲間たちが堪能する、年に一度のささやかな贅沢がこの温泉旅館での一夜である。




下戸も上戸もお構いなしの不揃いな人員構成であるが、酒癖に関しての不安要素はゼロである。
老若を問わず、釣り師というものはこうでなきゃいけない。


聞くところによると。
この品々が醸す境地は、凛として居並んだ老舗温泉旅館の美人女将たちを軒並み腰砕けにしちまったらしいのである。


















さて。
くどいようであるが。
フライロッドというものは溪魚を掛けるための道具である。
所有欲を満たすための収集品であってはならない。
釣り具に限ったことではないけれど、あの世まで持って行くことは無理である。



まあ、気持ちはわからないでもないから、敢えて多くは語るまい。
そのあたり、物欲から解脱すると溪の景色の見え方が変わるのであるが。



放歌高吟である。



おじいちゃんの必殺技ではあるが、これも年に一度のご愛嬌である。
故に、敢えて多くは語るまい。


さて、この愉快な仲間たちが繰り出すいびきや寝言の破壊力はどうであるか。
その脅威を知っているのは僕だけである。



寝不足の予感が確信に変わる。
溪の水音は耳にとても心地良いのであるが。
  


Posted by SFM at 19:43Comments(2)釣り師の日常

2019年04月11日

釣り師の歴史探訪 第九弾 真田昌幸の墓

頗るきれいに手入れがされた寺の境内。
近く、この枝垂れ桜は品良く咲くに違いない。








檀家各位の経済的負担などに思いを馳せつつ、本堂の裏山にある杉林の日陰に核心がある。



真田昌幸という戦国武将。
このところ、現代社会ではとりわけ根強い支持を得ているようである。
各種媒体の演出効果によるところが大きいのではないだろうか。

知略と策略と謀略の境目は人それぞれだろうけれど、この人のそれは諸国の群集心理を自在に蹂躙しまくって、今はこの寡黙な石塔に収まっていることになっているようである。


毎度のことながら、ずぶの素人が歴史などを扱っているのであるから、多くを語るとボロが出る。

努めて画像のみをお伝えしなければならない。










六文銭は三途の川の渡し賃。



地獄の沙汰もカネ次第とは言うけれど、電子マネーや仮想通貨はもとより、次世代通信技術の類は、僕のような社会的弱者を容赦なく置き去りにするに違いない。


さて。
この土地には、とびきり辛い大根おろしに味噌を溶いたつゆで手繰る太打ちの蕎麦がある。
池波正太郎サンが生前にとりわけ好んだ蕎麦のようで、物の本にとても美味しそうに書かれておられたことも懐かしい。
聞く所によると、この先生は無口の塊で、講演会の対談では司会者のトーク主体で終了まで持たせなければならなかったそうである。


寒の戻りである。
桜の開花は暫しお預け。


  


Posted by SFM at 20:58Comments(2)釣り師の日常

2019年04月07日

得意な場面で釣りに行く

土地柄もあって、この季節になっても右往左往せずに、キャスティングの練習をしながら溪を思うようになってずいぶん経つ。

キャスティングの精度がそうそう向上するわけでもなく、どちらかと言えば残雪の溪を歩く方が気持ちは楽しいけれど、これを疎かにすると鳩尾のあたりに漂う微かな不安感。

練習は裏切らないと僕は思いたい。



持てる技の数は少ないけれど、それを効果的に使える時期を見極めて入溪し、あまり欲張らずに適切な引き際で見切る。
予定としてはそういうことなのである。

活性の低い時期は無理をして釣りをせず、キャスティング練習に時間をあてて覇気を温存する。
わざわざ不利な場面で仕掛けずに好機に備える。
敢えて何もしないことも釣りの戦略。

淡々と、努めて平常心で釣ろう。
そのための準備はしっかりやろうじゃないか。
ここ数年、僕が自身に課したルールである。


それでも、月末あたりに少しだけ試し釣りでもやってみようかね。

山笑う季節はそう遠くない
一見悠々と、内心ではそわそわと時間軸に委ねる日々。

忘れかけていたけれど。
そろそろ毛鉤を巻き始めなければならない。


  


Posted by SFM at 20:48Comments(0)釣り師の日常

2019年04月02日

釣り師の歴史探訪 高島城続編 茶臼山

弊ブログ、読者の少なさにかけては人後に落ちぬと自負をするところであるが、今回は数少ない貴重な読者から頂戴した貴重なリクエストにお応えいたすのである。

せっかくのリクエスト。
これを粗末にするようでは釣り師失格である。

本来であれば、喜ばれる良い記事を投稿してご期待に沿えるよう努めるのが物事の筋というものであるが、毎度のことながら写真を撮って画像を掲載するぐらいしか僕には能が無い。
無い袖は振れない。



さて、初めて知ったのであるが、先日投稿した高島城は諏訪湖畔に築城される前には茶臼山にあったそうである。




諏訪湖の北側に複雑な地形の急斜面があって、そこが茶臼山である。



山城らしい地形ではあるが、早くから住宅地になっているらしく、城跡らしいものは残っておらず、石碑と説明板が設置されているぐらいである。












史跡を偲ぶことは叶わないけれど、これも諸行無常ではないだろうか。



余談であるが、下諏訪にある諏訪大社の秋宮の近くに塩羊羹の老舗がある。
甘くてしょっぱい絶妙な羊羹で、四皇のような甘味好きには堪えられない一品なのだそうである。
機会があればお茶会などにいかがであろうか。

和菓子、洋菓子を問わず、僕には手に負えないけれど。


居ながらに溪の気配を窺う日々。
釣りに出掛けるにはまだ早い。



  


Posted by SFM at 21:22Comments(3)釣り師の日常