2021年04月30日
季節限定 雪椿
人生に酒歴というものがあるかどうかは別として、その一点に限っては相応の経験を積んできた自負というものが少なからずある。
などと、そのようなことを人様の前で胸を張るべきでないことは、人として携えるべき是非というものである。
今回のお題は日本酒。
醸造酒である。
長年にわたり、蒸留酒に明け暮れた我が身。
実のところ、心から日本酒を愉しめるようになったのはごく近年のことである。
要するに、自国のお酒ながら、未だ駆け出し同然である。
そんな僕に新潟県に住む従姉が送ってくれたのがこの生酒。
しかも季節限定。

僕の十八番は手打ち蕎麦であるが、相手は生酒である。
ここは生酒の香りを想像して肴というものを一から組み立てなければならない。
然るべき日に備えて一升瓶ごと冷蔵庫で数日。
これから作るのが僕の限界。

鮭とクレソンの覇王色仕立て。
さらにアケビの巣篭りの再登場。

源流王の名にかけて、渾身の技を炸裂させたわけではあるが、多少なりとも日本酒の世界に届いただろうか。
さて。
生酒というものは開封したら早く飲み切っちまった方が良さそうである。
ああ、忙しい。
などと、そのようなことを人様の前で胸を張るべきでないことは、人として携えるべき是非というものである。
今回のお題は日本酒。
醸造酒である。
長年にわたり、蒸留酒に明け暮れた我が身。
実のところ、心から日本酒を愉しめるようになったのはごく近年のことである。
要するに、自国のお酒ながら、未だ駆け出し同然である。
そんな僕に新潟県に住む従姉が送ってくれたのがこの生酒。
しかも季節限定。
僕の十八番は手打ち蕎麦であるが、相手は生酒である。
ここは生酒の香りを想像して肴というものを一から組み立てなければならない。
然るべき日に備えて一升瓶ごと冷蔵庫で数日。
これから作るのが僕の限界。
鮭とクレソンの覇王色仕立て。
さらにアケビの巣篭りの再登場。
源流王の名にかけて、渾身の技を炸裂させたわけではあるが、多少なりとも日本酒の世界に届いただろうか。
さて。
生酒というものは開封したら早く飲み切っちまった方が良さそうである。
ああ、忙しい。
2021年04月26日
近頃は岩魚に逢うのも楽じゃない
雪解けが加速するこの季節。
溪の下見をしなければならない。
残雪や新芽の出具合などを分析、精査を経て今後の釣行計画が決定されるわけで、それに先立って現場調査が不可欠である。


この新芽を入れると、みそ味のカップ麺が別物になる。


因みに、これによく似たコバイケイソウという野草があって、ほぼ同じ頃に芽を出すのであるが、僕はまだ試したことが無いから、どのような味がするのか未だに知らずにいる。
水面下では岩魚たちのご機嫌はあまりよろしくない。
そのあたりに関しては、この地の海抜を思えば無理からぬことであると僕は思う。


凡その流れは見えてきた。
忙しい日々が始まる予感。

溪の下見をしなければならない。
残雪や新芽の出具合などを分析、精査を経て今後の釣行計画が決定されるわけで、それに先立って現場調査が不可欠である。
この新芽を入れると、みそ味のカップ麺が別物になる。
因みに、これによく似たコバイケイソウという野草があって、ほぼ同じ頃に芽を出すのであるが、僕はまだ試したことが無いから、どのような味がするのか未だに知らずにいる。
水面下では岩魚たちのご機嫌はあまりよろしくない。
そのあたりに関しては、この地の海抜を思えば無理からぬことであると僕は思う。
凡その流れは見えてきた。
忙しい日々が始まる予感。
2021年04月20日
テンカラ初心者に俺は・・・なり損ねたの巻
今年の初釣行。
連れて行ってくれたのはB場ちゃんである。
彼は実直な男である。
解禁直後からドライフライで地道にコツコツと釣果を積み重ねているようである。
連れて行く側と、連れて行ってもらう側の立場が逆転して僕は嬉しい。

僕がこの川に来たのは20年振りぐらいだろうか。
渓相は悪くない。
そうそう魚影が濃いわけではないけれど、まあまあヒレピンの部類に入る渓魚が棲みついている。
そう言いながら、足が向かなくなったのはわけがある。
当時、釣りに関連する業界の甘い囁きに唆されて、その気になっちゃった善男善女たちが大勢押しかけて混雑が始まったからである。
市場に例えれば、時価総額が低く、約定回数が少ない投資銘柄に、これといった理由無く大量の買い注文が殺到したような局面である。
その後の推移はご想像どおりである。

あれからずいぶん経ったけれど、ここは心が疼く釣り師たちが、本命の釣り場の条件が整って入溪出来るようになるまでの間、己を慰める場所のうちのひとつと思えばよろしい。
そのような世知辛い釣り場にも拘らず、B場ちゃんは僕のような人間を連れて行ってくれるというのである。
釣友というものはこうでなきゃいけない。
そこで、この機会に、先頃思い立って準備を始めていたテンカラ釣法を試してみようじゃないかと、要するにそういうことなのである。
けれど世の中は甘くない。
小雪が舞い始め、程なく店仕舞いである。
釣果はゼロである。
ついでに言うとB場ちゃんの釣果もゼロである。
その点に限っては心が和む。

この日に通過した崩落地である。

このB場ちゃんという男、日頃からポケットに手を突っ込んで歩くクセがある。

例えば、戸隠山には蟻の塔渡りという難所中の難所があって、常人は肝を冷やしつつ、四つん這いで通過するようであるが、そのナイフブリッジをポケットに手を突っ込んだまま飄々と渡り切るところを僕は見ちゃったのである。


2018年10月13日の記録写真がここにある。
さて、帰路。
この渓には山菜らしい山菜が全く見当たらない。
困った事に晩酌の肴に支障が出る。
万策尽きた釣り師の献立。

安価なレトルトのカレーと安価な冷酒。
この相性、騙されたと思って一度お試しになってはいかがだろうか。
連れて行ってくれたのはB場ちゃんである。
彼は実直な男である。
解禁直後からドライフライで地道にコツコツと釣果を積み重ねているようである。
連れて行く側と、連れて行ってもらう側の立場が逆転して僕は嬉しい。
僕がこの川に来たのは20年振りぐらいだろうか。
渓相は悪くない。
そうそう魚影が濃いわけではないけれど、まあまあヒレピンの部類に入る渓魚が棲みついている。
そう言いながら、足が向かなくなったのはわけがある。
当時、釣りに関連する業界の甘い囁きに唆されて、その気になっちゃった善男善女たちが大勢押しかけて混雑が始まったからである。
市場に例えれば、時価総額が低く、約定回数が少ない投資銘柄に、これといった理由無く大量の買い注文が殺到したような局面である。
その後の推移はご想像どおりである。
あれからずいぶん経ったけれど、ここは心が疼く釣り師たちが、本命の釣り場の条件が整って入溪出来るようになるまでの間、己を慰める場所のうちのひとつと思えばよろしい。
そのような世知辛い釣り場にも拘らず、B場ちゃんは僕のような人間を連れて行ってくれるというのである。
釣友というものはこうでなきゃいけない。
そこで、この機会に、先頃思い立って準備を始めていたテンカラ釣法を試してみようじゃないかと、要するにそういうことなのである。
けれど世の中は甘くない。
小雪が舞い始め、程なく店仕舞いである。
釣果はゼロである。
ついでに言うとB場ちゃんの釣果もゼロである。
その点に限っては心が和む。
この日に通過した崩落地である。
このB場ちゃんという男、日頃からポケットに手を突っ込んで歩くクセがある。
例えば、戸隠山には蟻の塔渡りという難所中の難所があって、常人は肝を冷やしつつ、四つん這いで通過するようであるが、そのナイフブリッジをポケットに手を突っ込んだまま飄々と渡り切るところを僕は見ちゃったのである。
2018年10月13日の記録写真がここにある。
さて、帰路。
この渓には山菜らしい山菜が全く見当たらない。
困った事に晩酌の肴に支障が出る。
万策尽きた釣り師の献立。
安価なレトルトのカレーと安価な冷酒。
この相性、騙されたと思って一度お試しになってはいかがだろうか。
2021年04月16日
岩魚釣り師のとっておき アケビの新芽
アケビは他の樹木などに巻きつくツル状の植物で、要するに寄生虫のような蔓延り方をする。
この新芽を湯掻いて、ウズラの卵を添えて嗜むのは、主に雪深い中越地方をはじめとする新潟県人である。

僕の地元の信州というところは、昆虫食をはじめ、悪食では名うての土地柄であるけれど、ざっと見渡したところ、アケビの新芽を食す習慣は無さそうである。
と言うより、食べ方が知られていないだけで、万一知られた暁には目敏い信州人がこれを見逃すわけがない。

そういうわけで、今のところは競争原理が働かないから、気兼ねなく芽を摘めるわけで、要するに利権を独占できちゃうのであるが、そのあたりに関しては、知ると知らないとでは大違いとしか言いようがない。
わざわざ騒ぎ立てる筋合いはさらさら無い。
実のところ、アケビなどというものは、案外どこにでも生えていて、ただ素通りしているだけなのであるが、くれぐれも、このような最重要機密を他人様に悟られてはならない。

さて。
来週あたりにはコシアブラが採れる。
予定ではそういうことになっているのである。
この新芽を湯掻いて、ウズラの卵を添えて嗜むのは、主に雪深い中越地方をはじめとする新潟県人である。
僕の地元の信州というところは、昆虫食をはじめ、悪食では名うての土地柄であるけれど、ざっと見渡したところ、アケビの新芽を食す習慣は無さそうである。
と言うより、食べ方が知られていないだけで、万一知られた暁には目敏い信州人がこれを見逃すわけがない。
そういうわけで、今のところは競争原理が働かないから、気兼ねなく芽を摘めるわけで、要するに利権を独占できちゃうのであるが、そのあたりに関しては、知ると知らないとでは大違いとしか言いようがない。
わざわざ騒ぎ立てる筋合いはさらさら無い。
実のところ、アケビなどというものは、案外どこにでも生えていて、ただ素通りしているだけなのであるが、くれぐれも、このような最重要機密を他人様に悟られてはならない。
さて。
来週あたりにはコシアブラが採れる。
予定ではそういうことになっているのである。
2021年04月12日
身体が鈍った岩魚釣り師にも春が来た
近年、父親に全く寄り付かなくなった我が家の次女であるが、先頃僕に頼んできたのは近所の里山歩きの案内である。
日頃の運動不足を憂い、多少なりとも体力をつけたいというのが彼女の言い分である。
まあいい。
釣りに出掛けるほどのまとまった時間はしばらく取れそうになさそうであるし、僕自身、そろそろ身体を慣らしておく必要性を常々感じていたところである。
さて、当日。
二時間半程度の軽い山歩き。
いきなり置いていかれたのは僕の方である。

全身が軋み、息が上がる。
この体たらく、釣り師失格の一歩手前である。
昨年秋の禁漁以来、自堕落に過ごしていたツケは高い。
ちらほらと釣友たちが積み重ね始めた釣果を横目に、僕はリハビリから始めなくてはならない。

さて。
問題はこの花である。
これを大量に採取して、お浸しでやってみたらどうであるか。

などと考えるのは毎年のことながら、今一歩を踏み出せないまま長年が過ぎてしまった。
叶わぬ想いなどではない。
仮に、実行に移した場合の罪悪感を僕は克服できそうにない。
要するにそういうことなのである。

まあいい。
日本海側からやってきた春の使者。

人間社会の移り変わりは速いけれど、季節の流れもけっこう速い。
山菜が出始めるのはすぐである。
溪魚が水面を割るのも時間の問題。
ぼんやり過ごしているとすぐに終わっちゃいそうである。
悠々として急ぎ召されよ。
日頃の運動不足を憂い、多少なりとも体力をつけたいというのが彼女の言い分である。
まあいい。
釣りに出掛けるほどのまとまった時間はしばらく取れそうになさそうであるし、僕自身、そろそろ身体を慣らしておく必要性を常々感じていたところである。
さて、当日。
二時間半程度の軽い山歩き。
いきなり置いていかれたのは僕の方である。
全身が軋み、息が上がる。
この体たらく、釣り師失格の一歩手前である。
昨年秋の禁漁以来、自堕落に過ごしていたツケは高い。
ちらほらと釣友たちが積み重ね始めた釣果を横目に、僕はリハビリから始めなくてはならない。
さて。
問題はこの花である。
これを大量に採取して、お浸しでやってみたらどうであるか。
などと考えるのは毎年のことながら、今一歩を踏み出せないまま長年が過ぎてしまった。
叶わぬ想いなどではない。
仮に、実行に移した場合の罪悪感を僕は克服できそうにない。
要するにそういうことなのである。
まあいい。
日本海側からやってきた春の使者。
人間社会の移り変わりは速いけれど、季節の流れもけっこう速い。
山菜が出始めるのはすぐである。
溪魚が水面を割るのも時間の問題。
ぼんやり過ごしているとすぐに終わっちゃいそうである。
悠々として急ぎ召されよ。
2021年04月04日
テンカラ初心者に俺はなる!!には毛鉤を巻かなければならない
沈んでいる魚を掛けるために思い立ったテンカラ釣法。
先立つものはカネではない。
毛鉤である。
それならこんな僕にも調達できそうである。
いや、しなければならない。
どうせ沈めるなら見えにくくても構わないのではないだろうか。

先人たちはキジを撃ったりチャボを飼ったりして材料を調達していたらしいけれど、僕の引き出しには長年にわたり肥やしになっていた古いコックハックルやパートリッジがある。
ハックルパターンの出番が減ったのはわけがある。
手早く巻けて、何匹釣っても駄目にならない毛鉤を追求した結果、そういうことになっちゃったのである。
などと偉そうなことを言っておきながら、ノーハックル・サイドワインダーをまともに巻けた試しがない。
はっきり言って、あれは僕には無理である。
都合良く、自己流の解釈を繰り返した結果、原型の面影は微塵もない。
釣り師には、重宝していながら、恥ずかしくて誰にも見せられない毛鉤の一つや二つぐらいはあってもいいのではないだろうか。
さて。
少し指先が慣れてきたところで。
毛鉤の名称には模した虫や小魚以外にも、地名や人名などがつけられたものがけっこうあるけれど、京都府在住のゆみ王サンというテンカラ釣り師におかれては、愛用の毛鉤に元カノの名前をつけておられるそうである。

どれどれ。
こっそり僕も真似をしてみようか。
C里、M美、Y子。
まあ、今回はこれぐらいにしておこうかね。
実際のところ、まだ使い物になると決まったわけではない。
ならなかったらただのゴミである。
何度か試しているうちに改善するところが出てくるに違いない。

先立つものはカネではない。
毛鉤である。
それならこんな僕にも調達できそうである。
いや、しなければならない。
どうせ沈めるなら見えにくくても構わないのではないだろうか。
先人たちはキジを撃ったりチャボを飼ったりして材料を調達していたらしいけれど、僕の引き出しには長年にわたり肥やしになっていた古いコックハックルやパートリッジがある。
ハックルパターンの出番が減ったのはわけがある。
手早く巻けて、何匹釣っても駄目にならない毛鉤を追求した結果、そういうことになっちゃったのである。
などと偉そうなことを言っておきながら、ノーハックル・サイドワインダーをまともに巻けた試しがない。
はっきり言って、あれは僕には無理である。
都合良く、自己流の解釈を繰り返した結果、原型の面影は微塵もない。
釣り師には、重宝していながら、恥ずかしくて誰にも見せられない毛鉤の一つや二つぐらいはあってもいいのではないだろうか。
さて。
少し指先が慣れてきたところで。
毛鉤の名称には模した虫や小魚以外にも、地名や人名などがつけられたものがけっこうあるけれど、京都府在住のゆみ王サンというテンカラ釣り師におかれては、愛用の毛鉤に元カノの名前をつけておられるそうである。
どれどれ。
こっそり僕も真似をしてみようか。
C里、M美、Y子。
まあ、今回はこれぐらいにしておこうかね。
実際のところ、まだ使い物になると決まったわけではない。
ならなかったらただのゴミである。
何度か試しているうちに改善するところが出てくるに違いない。