2022年07月27日
渓魚の機嫌が悪くても 無理を承知で釣りに行く
先週の釣行では渾身の大技を炸裂させてはみたものの、持てる覇気の一切合財を使い切っちゃって、ピクリとも動けなかった数日間。
盛んなる釣り旅を終えた安堵感はいいとしても、その裏で味わうことになったのが、これまで出来ていたことが出来なくなっていく喪失感。
寄る年波には口を挟む余地が無い。
あまりにも渓流域の釣りに偏り過ぎた人生を送ってしまった釣り師には、全く潰しが効かない老後が目前に迫っていることと思われる。
まあいい。
過ぎてしまったことは仕方が無い。
そんな一抹の寂しさを味わいながらも、歩き慣れた渓ぐらいしか僕には行くところが無い。
不器用な男なのである。

季節は土用隠れ。
けれど、それを理由にただサオを振っているだけで幸せになれるほど僕は善人ではない。
渓魚がいなければ仕方がないけれど、いるとわかっているから来ているのである。
釣りにくいことは重々承知、それでも釣り師は魚を掛けなければならない。



永遠に幸せになりたければ釣りを覚えればいいという説には一理あるとは思うけれど、現実的にはかなり無理がある。
総合的かつ俯瞰的見解に基づけば適切ではないと僕は思う。
釣りを覚えた時点で不幸のスパイラルから抜け出せなくなる可能性が極めて高いことを覚悟するべきである。
幸せな人生を送りたければ釣りなどに手を染めるべきではない。
もう遅いがね。


僕はヒグラシの声は好きであるが、ミンミンゼミやアブラゼミの声を聞かされるのはイヤである。
陽当りの悪い谷底でとぐろを巻いている釣り師である。
考えることなんて、せいぜいそんなところだと思うよ。


盛んなる釣り旅を終えた安堵感はいいとしても、その裏で味わうことになったのが、これまで出来ていたことが出来なくなっていく喪失感。
寄る年波には口を挟む余地が無い。
あまりにも渓流域の釣りに偏り過ぎた人生を送ってしまった釣り師には、全く潰しが効かない老後が目前に迫っていることと思われる。
まあいい。
過ぎてしまったことは仕方が無い。
そんな一抹の寂しさを味わいながらも、歩き慣れた渓ぐらいしか僕には行くところが無い。
不器用な男なのである。
季節は土用隠れ。
けれど、それを理由にただサオを振っているだけで幸せになれるほど僕は善人ではない。
渓魚がいなければ仕方がないけれど、いるとわかっているから来ているのである。
釣りにくいことは重々承知、それでも釣り師は魚を掛けなければならない。
永遠に幸せになりたければ釣りを覚えればいいという説には一理あるとは思うけれど、現実的にはかなり無理がある。
総合的かつ俯瞰的見解に基づけば適切ではないと僕は思う。
釣りを覚えた時点で不幸のスパイラルから抜け出せなくなる可能性が極めて高いことを覚悟するべきである。
幸せな人生を送りたければ釣りなどに手を染めるべきではない。
もう遅いがね。
僕はヒグラシの声は好きであるが、ミンミンゼミやアブラゼミの声を聞かされるのはイヤである。
陽当りの悪い谷底でとぐろを巻いている釣り師である。
考えることなんて、せいぜいそんなところだと思うよ。
2022年07月20日
泣く子も黙る源流釣行
野を越え山を越え、一体何をするのかと言えばただの釣りである。
源流域では釣りに費やす時間より歩き続ける時間の方が長い。
そこまでしなければ釣れないのかと言われると返す言葉がない。
本末転倒な釣りであるが、源流志向の釣り師が納得できる最終形態のうちの一つでもあると思う。

釣りへの期待に悶え苦しむ道中は長くて辛い。
それがテン場に着いた瞬間に肉体的苦痛からの開放感と既に釣果が約束されている安心感で身も心も軽くなる。
釣りに来ておきながら、釣りなんかどうでもよくなっちゃう。



釣り自体は難しく考える必要は全くない。
釣果を決定する権限は釣り師の側にある。
釣りたいだけ釣ればいいのであって、帳尻を合わせることはいつでも出来る。
ただ、物事には例外が付き物で、稀に渓魚も人を選ぶようである。



僕のモットーは「死して屍拾う者無し」であるが、相手次第では「旅は道連れ世は情け」にも柔軟に対応しちゃうのである。
今回の釣り旅は僕にしては珍しく相方がいて、咥え煙草のB場ちゃんである。

この男については多くを語る必要はない。
下戸であるがね。



単独行では考えなくてもいいけれど、源流行の相方は慎重に選任しなければならない。
テン場での夜も含めると相当に長い時間を共に過ごすことになるわけである。
下戸でありながらほんの撫でる程度に芋焼酎に付き合わせてしまったけれど、そこを補って余りある信頼関係を構築する能力をこの男は携えている。
しかも、相手はこの僕である。
なかなか出来ることじゃないと思うよ。

この際だから、僕としてはどこまでが副流煙でどこからが焚き火の煙なのかはっきりさせておきたいところだけれど、まあいい。
煙草ぐらい、心おきなく喫うがいい。


さて。
この地で空白の歴史を紡ぎ続けてきた唯一の釣り師が僕である。
そんなわけで、万物の声とでも言うのだろうか、時折その類の何かが聞こえてくることがあって、過去にこの地で繰り広げられた大職漁時代の実態が見えてきちゃったのである。
古の職漁師諸氏におかれては、伝統毛鉤による卓越した釣技を駆使し、竿一本で渓谷を制覇したように思われがちであるが、彼等は本職である。
漁獲がなければ話にならない。
渓魚がとびきり高値で売れた時代である。
置き鉤、夜突き、追い込み、その他諸々、漁獲のためにはあらゆる手段を尽くしたに違いないと僕は思う。
漁場の確保や独占は利権に直結する死活問題である。
縄張り意識は現代の釣り師と比べ物になるわけがなく、誰も見ていない山中でのことであるから、ちょっとしたせめぎ合いが殺し合いに発展したとしても不思議ではない。
実名を挙げることは差し控えるけれど、わざと川の中を歩いて他人の漁獲を低く押さえ込むなど日常茶飯事であったに違いない。
職漁師のすなどりに卑怯なんて言葉は無い。
結果のみが重要なのである。
各地には、後世に名を残し、没後も崇められている高名な職漁師が少なくないようであるが、実のところは山賊と紙一重であったのではないかというのが僕の個人的な所見である。
一般的に、自己中心的な人間というものは正論を言われると怒るものである。
加えて、厳格な上下関係を作りがちであるから、次世代が負の側面を語り継ぐことは許されなかったに違いない。
ごく稀にではあるが、近年においても自然保護を逆手に取った反社会的勢力に類似する存在を輩出する土壌であった可能性も排除できないのではないだろうか。




いずれにせよ、幾多の紆余曲折を経て職漁師たちは絶滅した。
夏草や兵どもが夢の跡。
全くだ。松尾芭蕉を褒めてやる。
この渓が変わってしまうことはないだろうけれど、源流釣り師の現役寿命は短い。
次世代には歴史の語り手は現れそうにない。
今さら現れても僕が困る。
我儘を言うようだけれど、こんな所までやってきて人様に釣り姿を見られるのはイヤである。

この渓で一番自由な存在。
この地で僕が自問自答を続けてきた主題である。
我ここに至る・・・・・・。
などと、いちいち能書きを並べ立てているような暇があったら黙々と釣っていた方がよろしい。
この釣りは忙しい。
ほんの数秒が一匹の渓魚に変わる。
時間が勿体ない。
まあ、毎度のことながら、五体満足で生還することが出来て何よりであるが。

源流域では釣りに費やす時間より歩き続ける時間の方が長い。
そこまでしなければ釣れないのかと言われると返す言葉がない。
本末転倒な釣りであるが、源流志向の釣り師が納得できる最終形態のうちの一つでもあると思う。
釣りへの期待に悶え苦しむ道中は長くて辛い。
それがテン場に着いた瞬間に肉体的苦痛からの開放感と既に釣果が約束されている安心感で身も心も軽くなる。
釣りに来ておきながら、釣りなんかどうでもよくなっちゃう。
釣り自体は難しく考える必要は全くない。
釣果を決定する権限は釣り師の側にある。
釣りたいだけ釣ればいいのであって、帳尻を合わせることはいつでも出来る。
ただ、物事には例外が付き物で、稀に渓魚も人を選ぶようである。
僕のモットーは「死して屍拾う者無し」であるが、相手次第では「旅は道連れ世は情け」にも柔軟に対応しちゃうのである。
今回の釣り旅は僕にしては珍しく相方がいて、咥え煙草のB場ちゃんである。
この男については多くを語る必要はない。
下戸であるがね。
単独行では考えなくてもいいけれど、源流行の相方は慎重に選任しなければならない。
テン場での夜も含めると相当に長い時間を共に過ごすことになるわけである。
下戸でありながらほんの撫でる程度に芋焼酎に付き合わせてしまったけれど、そこを補って余りある信頼関係を構築する能力をこの男は携えている。
しかも、相手はこの僕である。
なかなか出来ることじゃないと思うよ。
この際だから、僕としてはどこまでが副流煙でどこからが焚き火の煙なのかはっきりさせておきたいところだけれど、まあいい。
煙草ぐらい、心おきなく喫うがいい。
さて。
この地で空白の歴史を紡ぎ続けてきた唯一の釣り師が僕である。
そんなわけで、万物の声とでも言うのだろうか、時折その類の何かが聞こえてくることがあって、過去にこの地で繰り広げられた大職漁時代の実態が見えてきちゃったのである。
古の職漁師諸氏におかれては、伝統毛鉤による卓越した釣技を駆使し、竿一本で渓谷を制覇したように思われがちであるが、彼等は本職である。
漁獲がなければ話にならない。
渓魚がとびきり高値で売れた時代である。
置き鉤、夜突き、追い込み、その他諸々、漁獲のためにはあらゆる手段を尽くしたに違いないと僕は思う。
漁場の確保や独占は利権に直結する死活問題である。
縄張り意識は現代の釣り師と比べ物になるわけがなく、誰も見ていない山中でのことであるから、ちょっとしたせめぎ合いが殺し合いに発展したとしても不思議ではない。
実名を挙げることは差し控えるけれど、わざと川の中を歩いて他人の漁獲を低く押さえ込むなど日常茶飯事であったに違いない。
職漁師のすなどりに卑怯なんて言葉は無い。
結果のみが重要なのである。
各地には、後世に名を残し、没後も崇められている高名な職漁師が少なくないようであるが、実のところは山賊と紙一重であったのではないかというのが僕の個人的な所見である。
一般的に、自己中心的な人間というものは正論を言われると怒るものである。
加えて、厳格な上下関係を作りがちであるから、次世代が負の側面を語り継ぐことは許されなかったに違いない。
ごく稀にではあるが、近年においても自然保護を逆手に取った反社会的勢力に類似する存在を輩出する土壌であった可能性も排除できないのではないだろうか。
いずれにせよ、幾多の紆余曲折を経て職漁師たちは絶滅した。
夏草や兵どもが夢の跡。
全くだ。松尾芭蕉を褒めてやる。
この渓が変わってしまうことはないだろうけれど、源流釣り師の現役寿命は短い。
次世代には歴史の語り手は現れそうにない。
今さら現れても僕が困る。
我儘を言うようだけれど、こんな所までやってきて人様に釣り姿を見られるのはイヤである。
この渓で一番自由な存在。
この地で僕が自問自答を続けてきた主題である。
我ここに至る・・・・・・。
などと、いちいち能書きを並べ立てているような暇があったら黙々と釣っていた方がよろしい。
この釣りは忙しい。
ほんの数秒が一匹の渓魚に変わる。
時間が勿体ない。
まあ、毎度のことながら、五体満足で生還することが出来て何よりであるが。
2022年07月11日
夏岩魚 心頭滅却したところで暑いことには変わりない
僕は寒さが嫌いであるが、暑さも嫌いである。
我儘を言うようだけれどイヤなものはイヤなのである。
オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリートというスタンダードナンバーがあるが、このような時に明るい表通りを歩けと言われても僕には無理である。
はっきり言って命に拘わる。
因みに、ルイ・アームストロングがサッチモと呼ばれていたことを知ったのは昨年のことである。
参議院選挙投票日。
早々と期日前投票を済ませた岩魚釣り師は単車に乗ってヨロヨロと陽当りの悪い谷底へ堕ちていくのである。

渇水気味の水量。
ぎりぎり許容範囲の水温。

良型が期待できる日柄ではなさそうである。
小魚天国に違いない。
釣る前から少し先の未来が見えてしまうのは釣り師として悲しいことである。
案の定、夥しい中小の岩魚たちから一斉攻撃を受ける。



釣っておいて言うのも何だけれど、数の力にものを言わせるのが民主主義の根幹ということになっているようである。
政界関係者は数の論理に頼ればいいだろうけれど、釣り師は数を釣ればいいってもんじゃないと僕は思う。
渓魚たちの声なき声に丁寧に耳を傾けなければならない。



相も変わらず変わり映えのしない岩魚の写真しか掲載することができないのは気が引けるけれど、僕には岩魚ぐらいしか釣れないのだから仕方がない。
そのあたり、一匹一匹との出会いを大切にしていると思っていただけないだろうか。



暑い暑いと言いながら、わざわざ熱い湯に立ち寄ったのはわけがある。

ほらね、五臓六腑に沁みわたる。

我儘を言うようだけれどイヤなものはイヤなのである。
オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリートというスタンダードナンバーがあるが、このような時に明るい表通りを歩けと言われても僕には無理である。
はっきり言って命に拘わる。
因みに、ルイ・アームストロングがサッチモと呼ばれていたことを知ったのは昨年のことである。
参議院選挙投票日。
早々と期日前投票を済ませた岩魚釣り師は単車に乗ってヨロヨロと陽当りの悪い谷底へ堕ちていくのである。
渇水気味の水量。
ぎりぎり許容範囲の水温。
良型が期待できる日柄ではなさそうである。
小魚天国に違いない。
釣る前から少し先の未来が見えてしまうのは釣り師として悲しいことである。
案の定、夥しい中小の岩魚たちから一斉攻撃を受ける。
釣っておいて言うのも何だけれど、数の力にものを言わせるのが民主主義の根幹ということになっているようである。
政界関係者は数の論理に頼ればいいだろうけれど、釣り師は数を釣ればいいってもんじゃないと僕は思う。
渓魚たちの声なき声に丁寧に耳を傾けなければならない。
相も変わらず変わり映えのしない岩魚の写真しか掲載することができないのは気が引けるけれど、僕には岩魚ぐらいしか釣れないのだから仕方がない。
そのあたり、一匹一匹との出会いを大切にしていると思っていただけないだろうか。
暑い暑いと言いながら、わざわざ熱い湯に立ち寄ったのはわけがある。
ほらね、五臓六腑に沁みわたる。