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2018年12月31日

信州信濃の新蕎麦よりも あたしゃあなたのそばがいい

「七つ長野の善光寺、八つ谷中の奥寺で、竹の柱に萱の屋根、手鍋下げてもわしゃいとやせぬ。」

ここで信州信濃の新蕎麦が登場するのだけれど、幽き蕎麦の香りさえも、焦がれるような男女の仲にかかっては形無しである。

「あなた百までわしゃ九十九まで、共にシラミのたかるまで、と、きやがった。
どうだ、チキショウ。・・・」

まだ少し先があるけれど、こんな具合に続くのが寅さんの口上である。
実を言うと、僕はこれをけっこう好きなのである。

余談であるが。
僕が露天商から物品を買い求めることは現実的には無いと言い切ってよろしい。
けれど、「見上げたもんだよ屋根屋の褌、見下げて掘らせる井戸屋の若後家・・・。」
と、このあたりになってくると、なんだかもう堪えられないのである。


さて、大晦日。

そんな名うての名品、信州信濃の新蕎麦は僕の手元にも実在する。



今年も国産の玄蕎麦は品薄なのである。
にも拘わらず、先日訪ねた折に師が持たせてくれた極上の蕎麦粉である。


ここは湖水の如く穏やかなる心で年越し蕎麦を打たなければならない。



入念な水回し。




このあたりからリズミカルに、テンポ良くいきたいところであるが、多少のぎこち無さはご愛嬌。

本来ならば、とても人様にお見せ出来るようなものでもないのだけれど。






先述の口上を思うにつけ、湖水の如く穏やかなる心はどこへやら。












仮にであるが。
丹精に打たれた、香り立つような信州信濃の新蕎麦があったとして。
一方、人相の悪さにかけては、どこに出しても引けを取らぬ岩魚釣り師がいたとして。
世の、ご聡明なる女史各位におかれては、そのような釣り師などと長年シラミにたかられつつ添い遂げるなど以ての外で、小粋に手繰る新蕎麦を即座に選択されるに違いないと考えるのが人としての分別というものである。

まあいい。
そんな蕎麦が打てるのは一体いつになることやら。


さてさて。
相も変わらず、身もフタも無きことを書き連ねた、人影疎らな弊ブログにも関わらず、立ち寄って下さった読者の皆々さまには心より感謝を申し上げます。
合掌。

良い年をお迎え下さりますよう。


寒気が少し緩んで昼下がりの風は穏やか。




除夜の鐘まであと少し。
起きているつもりは無いけれど。
  


Posted by SFM at 15:35Comments(2)釣り師の日常

2018年12月27日

サオとラインの微妙な相性

サオを何本か持ち出して、わざと指定番手以外のラインを乗せてみると、どこかで快適な距離感が見つかったりする。

人によって感じ方は一様ではないと思うけれど、具合の良さそうな釣り場を想像しながら試しているとなかなか面白い作業だと思う。



大抵の場合、釣具というものは素直で物理的に出来ているから、アラ探しに精を出したり、売り飛ばしたりするよりも、長所を見つけて有効に活用した方がお互いの為であると僕は思う。

サオやラインというものは人間同士を組み合わせるよりずっと容易に違いない。

さして難しい作業ではないけれど、ドナルド・トランプには無理である。



さて、真鯛の背骨である。
けれど、これを然るべき師が仕立てると絶妙のあら煮になる。



帰り際にいそいそと貰い受けて、一晩おいて煮こごりのようになったやつを電子レンジで温めるとホカホカの湯気が立つ。
ほぐした身に煮汁をたっぷり含ませてお湯割りと一緒にやってみるとどうであるか。
何も言えなくなっちゃう。


おそらく、カマは今頃はんなりと塩をきかせた一夜干しになっているに違いない。
  


Posted by SFM at 20:03Comments(0)釣り師の日常

2018年12月24日

釣り師たちのクリスマスイブはループコントロール

クリスマスイブのこの日、N川サンと僕は師を訪ねてキャスティングの練習をするのである。
賛美歌を歌ったり、お経を唱えたぐらいでフライフィッシングのゲーム性が得られれば誰も苦労などしないのである。

加えて、洋菓子店やアパレル業界の商業戦略に踊らされているようでは釣り師失格である。


とりも直さず腹ごしらえをしなければならない。



N川サンは特大盛り、僕は中盛りである。


寒風に耐え、凍えた手先をほぐしながらループを整え、ラインの荷重を拾い、距離感を測る。

時折、師の是正指導。
最小限の力でループを整え、コントロールして送り出す。

カネで買えないのはここである。




N川サンのループは気持ちよく伸びる。
横目で見ていると、足元にとぐろを巻いたラインがきれいに消える。
見ていて気持ちがいい。
寒いけれど。


さてさて、冷え切った身体を源泉掛け流しに沈める。



思い切って、頭のてっぺんまで浸かりたいところだけれど、僕は両生類ではない。
一応は哺乳類の端くれであるから、顎まで浸かるのがやっとである。




ループが延びると景色が変わる。
雪国の冬は長いけれど、来年の釣りはもう始まっている。



醸す笑みは品に欠ける。
  


Posted by SFM at 21:57Comments(0)釣り師の日常

2018年12月20日

回らない寿司屋の店仕舞い

近所の寿司屋は、家から歩いて行けるから、帰りの足を気にしなくても構わない。
そんなわけで、年に数えるほどだったけれど、この店のカウンターでささやかにやるのを楽しみにしていたところ、この秋に閉店してしまった。


この店では僕の懐具合をわかっていたから、目玉が飛び出るようなことはまず無くて、お任せにして心安く過ごせていたのである。






年の暮れに、落ち着いたところで出掛けて行こうと思っていたのだけれど、メカジキの血合いの刺身や赤貝のヒモなどをつまむことは出来なくなってしまった。


はっきり言って、僕は回らない寿司屋の方が好きだ。
穏やかなることを学べと言うけれど、回る寿司屋では無理である。
寿司というものは、そうそう盥回しのように扱ってはいけないと僕は思う。
スィーツ類のようなつまらぬものと十把一絡げにするなど以ての外である。


寿司屋に限ったことではないけれど、このところ、僕が馴染んだ店が少しずつ消えていく。

年を追うごとに僕の居場所は減ってくる。
この世のどこにもいられなくなる日もそう遠くないに違いない。


さて。
未練がましく真似をしてみたところでプロはプロ、素人は素人である。
握りは僕の手に余る。




いつの日か自前の握りで、などという安直な思い付き。
素人が分不相応に欲を出した時から不幸が始まる。

そのあたり、敢えて多くは語るまい。

  


Posted by SFM at 21:02Comments(2)釣り師の日常

2018年12月16日

釣り師の釣り師による釣り師のための新蕎麦の集い

漸く先月末に出荷が始まった今年の新蕎麦。
信州産の信濃1号は品薄感があるけれど、出来はなかなかだと僕は思う。

そこで、この日は師の計らいである。
素直に恩恵を享受して、釣り師が相集い、新蕎麦の香りを愛でるのである。




釣り師が打つ蕎麦というものは、採算を考慮しつつ大勢の来店客を捌かなくてはならない蕎麦店と同じではいけないのである。

それはそれ、これはこれ。
要するにそういうことなのである。

とりわけ木鉢の手間を惜しんではならない。
蕎麦に心が表れるのはここである。

人様は気付かなくても、自分にウソはつけないのである。





もう一人の打ち手はKONちゃん。
着用した作務衣が彼をそれらしく見せる。



ふと、馬子にも衣装という諺がよぎるところであるが、時折彼は知人を集めて蕎麦打ちの手ほどきなどを執り行っているそうである。
ずいぶん偉くなったものだと思わなくもないけれど、この笑顔を慕い、奉る善男善女は根強く点在しており、要するに、それなりに人格者のようなのである。
けれど、蕎麦の麺線を均一にするために生地を延す時に肉分けという工程がある。
彼に限っては、そのあたりを寄せて上げる女性用下着に例えるあたり、一見したところ頗る健全そうに見えるこの笑顔の裏側を見抜けるのは、せいぜいごく限られた釣り師ぐらいなのである。
まあいい、敢えて多くは語るまい。
合掌。


さて。
打って打って打ちまくった後には蕎麦を手繰らなければならない。



有無を言わさず、一人あたり四枚のもり蕎麦を平等に胃袋に納めなければならない。

そうは言っても、どうにかこうにか喰っちまうあたり。
そこが一級品の蕎麦粉なのである。


けれど、この釣り師たちは大晦日まで蕎麦に箸が伸びないに違いない。



食後、表に出て腹ごなしにキャスティングをする釣り師たちである。





寒さにかまけてぬくぬくと炬燵で蹲っているようでは釣り師失格である。

身体が冷えたら源泉掛け流しに浸かればよろしい。


蕎麦に始まり蕎麦に終わる瀬戸際の釣り師たちの一日は短い。
  


Posted by SFM at 21:27Comments(0)釣り師の日常

2018年12月13日

男が一人で喰うすき焼きほどうまいものはないのである

この夜、僕は一人で留守番である。
我が家の女共は各々出払っており、夕食は僕の勝手にしろということである。

さて、お言葉に甘えて勝手にさせて頂かなくてはならない。
ここで孤独を楽しめなくては岩魚釣り師としての資質を問われる。

時節柄、ブリしゃぶなどが思い浮かんだのだけれど、ブリの値段がなぜか高い。
年末が近づくと魚介類の値段がさらに上がるに違いない。

そこですき焼きの登場である。



我が家には離れも特別会計もないから、一般会計から支出しなければならない。
そうは言っても、このすき焼きの原価は、世の老若男女が無駄口を叩きつつパクついているケーキセットなどよりずっと安いのである。
塩川正十郎が草葉の陰で泣きそうである。


一人でやるすき焼きの味は男の特権であると僕は思う。
女にわかるワケがない。
武士の娘であろうとなかろうと、そこは譲れない。



日中通りかかって眺めた西岳の稜線など。
寒い日だったけれど。


  


Posted by SFM at 20:56Comments(0)釣り師の日常

2018年12月09日

C&R区間はニゴイ釣り場?

禁漁期の慰みにと思って出掛けてきたC&R区間。

結果的に釣果はゼロだから慰みにならなかったのである。

見たところ、立ち並ぶ釣り師たちの釣果も等しくゼロのようである。


寒風に耐え、黙々とキャスティングを繰り返すB場ちゃん。



努力というものが常に報われるとは限らない。



唯一、このお兄さんがルアーで釣ったのはニゴイである。



一応、ここはC&Rニジマス釣り場なのだけれど、ニゴイの方がよく釣れるのではないだろうか。



忘れた頃にやってくる数少ないアタリが乗せられない。
ごくまれに乗っても手元に寄せるまでに逃げられる。

それでも広い心で投げちゃ引きを繰り返す。

この類の釣りは、なかなか引き際が見つけられなくて、いくらやってもキリが無いところが困るのである。

誰かが言った。
「なぜ釣れるかって? 釣れるまでやめねえからだ。」

それぐらい僕にもわかる。


陽が沈んで強制終了。





男が二人、うつ病になりそうな心を150円の湯銭で慎ましくほぐす。






さて、頂き物のチケットがあるから、B場ちゃんと別れた後に地元のジャズバンドのコンサートで道草。



これが終わる頃には刺身が半額になっているに違いない。
スーパーに寄って帰ろう。


翌朝は寒くても、少しだけ時間を作ってキャスティングの練習をしなければならない。
  


2018年12月05日

小魚がいなくなった川縁の語らい

仕事の合間の時間調整には川などを眺めるのがよろしい。

ほんの僅かでも釣りをすると游魚料が掛かるけれど、見ているだけならタダである。




そんなわけで仕事をサボりつつボーッと川を眺めていると、地元の人懐こいおっさんが話しかけてくる。

さて、聞くところによると。
このあたりでは上流から落ちてきたマスが釣れる程度で、それもごく稀なことなのだそうである。
要するに、魚が釣れることは滅多に無いということである。

おっさんによれば、ハヤやオイカワのような小魚がずいぶん減ったそうで、外来魚の被害はとても深刻だけれど、近頃の主犯格は川鵜で、コクチバスやブルーギルよりも役者が一枚上なのだそうである。

去年だっただろうか、某内水面漁協で聞いた話では、川鵜という鳥は、一羽あたり一日に500gぐらいの魚を呑み、魚種の好き嫌いはしないそうである。
掛け算ぐらいは僕にもできる。




初夏には、せっかく鮎を放流しても、最近の鮎はナワバリ意識が希薄だから囮を追わなくて、さらに、川鵜や外来魚に呑まれたり、大雨が降ると増水で流されたりするから、友釣りそのものが成り立たなくなって、釣り券が売れなくなって、漁場としてお話にならなくなってしまったそうなのである。
鮎釣り師の高齢化も相当に深刻らしい。



僕が岩魚釣りを覚えて、深い渓筋を渡り歩いているうちに、川のカタチはずいぶん変わったけれど、水中の生態系はそれ以上に変わってしまったに違いない。



僕は幼少の頃、この近くに住んでいたことがある。
親や先生の目を盗むほどに楽しくて、つい夢中になった川遊びだったけれど、どこかで釈然としなかったあの感覚を、今ならはっきりコトバにできると思う。

運が良かろうと悪かろうと、他人様に転嫁することが許されない自己責任の理である。


液晶画面の中で物事が完結しちゃう時代。
幅を利かせ始めたのは被養殖人種。

自然河川で川遊びに呆ける子供たちを見掛けなくなって久しい。
殊に、今時の親や先生たちは間違っても首を縦に振らないことと思う。

生簀の外は危険がいっぱいだから、あまりお勧めはしないけれど。


  


Posted by SFM at 20:08Comments(2)釣り師の日常

2018年12月02日

新蕎麦の香りを愛でる

初物である。
先週、師に持たせてもらった新蕎麦である。

新蕎麦を手繰りたければ蕎麦店に出掛けて行けば良さそうなものだけれど、僕の場合は二日前につゆを仕込んでおくところから始めなければならない。

さて。



打ち終えてからもまだ先がある。
即座に茹でてはいけないのである。


打ち立てと聞けば、とてもおいしそうに思えるけれど、実はそういうわけでもなくて、少し時間を置いた方がいいことになっている。

本職はこれを「包丁下」と呼んでいる。



わざわざ蕎麦などを打つよりも、蕎麦店の暖簾を潜る方をお勧めする。

この一枚のもり蕎麦を得るために、どれほどのものを失ったことだろうか。
ふと。



そうは言いながら自前の手打ちで、ほぼ思い通りの新蕎麦の香り。
合掌。



昼下がり。
師を訪ねて独り占めの湯。




第三のビールを買うとマルちゃん正麵がついてきた。





再来週は迷釣り師たちの新蕎麦の集い。
乞うご期待。


一椀の鮭の粕汁などがとりわけ恋しく思える季節。
  


Posted by SFM at 20:19Comments(0)釣り師の日常