2022年08月28日
尺二本 僕が釣ったわけじゃないけれど
天気予報では昼頃から雨が降ることになっている。
まあいい。降り始めたら帰ろう。
相方はB場ちゃん。
この男は晴男である。
因みにKONちゃんは雨男である。
水温は17度。
わかっちゃいるけれど、これはよろしくない。
弾かれたり、時には掛けたりと、同じ事の繰り返し。
予定通り、木っ端岩魚ばかりである。


B場ちゃんはこの日も咥え煙草である。
致し方なく僕も煙草を喫いながら眺めていると魚が掛かったようである。

しかもけっこうなサオのしなり具合。
これはスレで掛けたネ。
いや、そうでもなさそうである。
寄せて取ってみると尺越えである。

一方、僕に釣れて来るのは木っ端岩魚である。


焚火依存症とでも言えばいいのだろうか。
理由なき火遊びである。

昼下がり。
敢えて煙草を喫わずに見ていると、B場ちゃんが瀬尻に落とした毛鉤を上流から追って来た大岩魚が食っちまった。
すげぇ。

「欲を出して引きを愉しもうと思っているとバラすよ。最短時間で取っちまいな。」
「そんな余裕無いって。」

わざわざ測るまでもなく立派な尺越えである。
何という男であろうか。
尺越えを二本である。
まあいい。
日頃から地道にコツコツと努力を絶やさない男である。
時には下品な笑みぐらい浮かべてもいいのであるよ。
いい思い出が出来たじゃないか。
まあ、僕に釣れたのは木っ端岩魚ばかりであるがね。

さて。
この釣果は、師匠が聞けば最高に面白がるパターンに違いない。
いい土産話が出来た。

尺二本の竿頭は下戸である。
代わりに僕が祝杯を上げてやる。

結局、雨は降らなかったネ。
まあいい。降り始めたら帰ろう。
相方はB場ちゃん。
この男は晴男である。
因みにKONちゃんは雨男である。
水温は17度。
わかっちゃいるけれど、これはよろしくない。
弾かれたり、時には掛けたりと、同じ事の繰り返し。
予定通り、木っ端岩魚ばかりである。
B場ちゃんはこの日も咥え煙草である。
致し方なく僕も煙草を喫いながら眺めていると魚が掛かったようである。
しかもけっこうなサオのしなり具合。
これはスレで掛けたネ。
いや、そうでもなさそうである。
寄せて取ってみると尺越えである。
一方、僕に釣れて来るのは木っ端岩魚である。
焚火依存症とでも言えばいいのだろうか。
理由なき火遊びである。
昼下がり。
敢えて煙草を喫わずに見ていると、B場ちゃんが瀬尻に落とした毛鉤を上流から追って来た大岩魚が食っちまった。
すげぇ。
「欲を出して引きを愉しもうと思っているとバラすよ。最短時間で取っちまいな。」
「そんな余裕無いって。」
わざわざ測るまでもなく立派な尺越えである。
何という男であろうか。
尺越えを二本である。
まあいい。
日頃から地道にコツコツと努力を絶やさない男である。
時には下品な笑みぐらい浮かべてもいいのであるよ。
いい思い出が出来たじゃないか。
まあ、僕に釣れたのは木っ端岩魚ばかりであるがね。
さて。
この釣果は、師匠が聞けば最高に面白がるパターンに違いない。
いい土産話が出来た。
尺二本の竿頭は下戸である。
代わりに僕が祝杯を上げてやる。
結局、雨は降らなかったネ。
2022年08月16日
釣り師が寄り付かない沢には何かある
八月中旬。
何をやってもダメである。
それならダメ元で、初めての沢に出向いて魚影の有無や遡行の難易度などの確認作業をした方が建設的ではないだろうか。
ダメ元ではあるが投げやりではない。
そんな一日。
殆ど人に知られていない沢が地図上にある。
仮に知られていても、そうそうお手軽な場所でもなさそうである。
地形や周辺環境から察するところ、満更溪魚がいないわけでもなさそうに思える。
さて、それなら行こうか。
草いきれは夏の季語ではあるが僕は嫌いである。
さらに言うと、人いきれはもっとイヤである。

B場ちゃんは初めて入る沢にはとりわけ深い関心を示す。
地道な努力を惜しまず、結果を謙虚に受け止める男である。
口に出さないだけで冒険心に溢れているに違いない。
相変わらず咥え煙草ではあるが、クマ除けくらいにはなると思いたい。
大抵の場合、人が入らないということは何か理由があると思わなければならない。
入渓に手間が掛かるとか、遡行しにくい地形とか、藪でサオが振りにくいとか、過去に誰かが怪我をしたとか、頻繁にクマが出るとか、一人じゃ怖いとか、疲れるとか。
そのようなことを言い出せばキリがない。
はっきり言って屁理屈である。
時には知恵を絞り、汗を流し、覇気を駆使して難局を乗り越えればいいのである。
覇気は別としても、せめて知恵と汗ぐらいは出せなければ渓谷で生き残ることは出来ない。
昨今の釣り師は、往年の釣り師と比較すると明らかに軟弱である。
その一方で講釈だけは実にご立派なのである。
しかも横文字が多い。
さらに言うと、近頃の若い奴等は言い訳ばかりしやがって、他人をあてにする傾向が強い。
そのようなことで良好な釣り場が得られると思ったら大間違いである。
楽をして成功の果実だけを享受しようとしても、そうは問屋が卸さないのである。
頭を使え、頭を。
などと、いちいち目くじらを立てる必要は無い。
聞くところによると、世の釣り師たちの大半は情報収集能力に長けていながら、機動力には欠けるそうなのである。
多少なりとも、僕たちに釣れる余地が残されているのはそのお蔭なのである。
いずれにせよ、クルマ横付けで釣りたければ釣り堀にでも行けばよろしい。
まあ、ただの試し釣りである。
気楽にやろう。
そのようなことを思いながら意気揚々と降り立ってみればどうであるか。


落石だらけ、倒木だらけ。
散々な荒れ沢である。
うっかりすると、前のめりに転んで顔面を怪我しちゃいそうである。
それ痛いらしいよ。
肝心の魚影であるが、廃墟の如しとでも言えばいいのだろうか。
季節的な悪条件を差し引いても浮世というものは世知辛い。
しかもこの沢は高低差が大きい。
アタリがなければただ辛いだけの強制労働である。


やがてガレ場が終わりナメ床に変わる。
岩盤の亀裂に小さな魚影を発見できたものの、毛鉤を食わせるのは容易ではない。
後にも先にも釣果はこれだけである。

この沢筋の源頭には箸置きぐらいの岩魚たちが細々と棲んでいることが確認できた。
とびきりの貧果ではあったけれど、釣り師の受け止め方なんて、その時の釣果次第でコロコロ変わるものである。
一度や二度の釣行で一概に決めつけてはいけないと思うところではあるが、この沢にまた出掛けて来ることは多分ないだろう思う。
痩せ岩魚が僕たちの毛鉤を弾いただけのことである。
わざわざ人に話す心算もない。
仮にであるが、もっと魚影が濃くて釣りやすい沢だったらどうだったろうか。
そのような穴場であったら尚更他人になど言えるわけがない。
僕たちは口が堅いのである。
ずいぶん山歩きが早くなったじゃないか。
待ってくれ。置いて行かれちゃいそうだ。

足を止めてこれが野イチゴだと教えられる。

枝豆だけでお腹一杯。
やっぱり夏バテかね。

何をやってもダメである。
それならダメ元で、初めての沢に出向いて魚影の有無や遡行の難易度などの確認作業をした方が建設的ではないだろうか。
ダメ元ではあるが投げやりではない。
そんな一日。
殆ど人に知られていない沢が地図上にある。
仮に知られていても、そうそうお手軽な場所でもなさそうである。
地形や周辺環境から察するところ、満更溪魚がいないわけでもなさそうに思える。
さて、それなら行こうか。
草いきれは夏の季語ではあるが僕は嫌いである。
さらに言うと、人いきれはもっとイヤである。
B場ちゃんは初めて入る沢にはとりわけ深い関心を示す。
地道な努力を惜しまず、結果を謙虚に受け止める男である。
口に出さないだけで冒険心に溢れているに違いない。
相変わらず咥え煙草ではあるが、クマ除けくらいにはなると思いたい。
大抵の場合、人が入らないということは何か理由があると思わなければならない。
入渓に手間が掛かるとか、遡行しにくい地形とか、藪でサオが振りにくいとか、過去に誰かが怪我をしたとか、頻繁にクマが出るとか、一人じゃ怖いとか、疲れるとか。
そのようなことを言い出せばキリがない。
はっきり言って屁理屈である。
時には知恵を絞り、汗を流し、覇気を駆使して難局を乗り越えればいいのである。
覇気は別としても、せめて知恵と汗ぐらいは出せなければ渓谷で生き残ることは出来ない。
昨今の釣り師は、往年の釣り師と比較すると明らかに軟弱である。
その一方で講釈だけは実にご立派なのである。
しかも横文字が多い。
さらに言うと、近頃の若い奴等は言い訳ばかりしやがって、他人をあてにする傾向が強い。
そのようなことで良好な釣り場が得られると思ったら大間違いである。
楽をして成功の果実だけを享受しようとしても、そうは問屋が卸さないのである。
頭を使え、頭を。
などと、いちいち目くじらを立てる必要は無い。
聞くところによると、世の釣り師たちの大半は情報収集能力に長けていながら、機動力には欠けるそうなのである。
多少なりとも、僕たちに釣れる余地が残されているのはそのお蔭なのである。
いずれにせよ、クルマ横付けで釣りたければ釣り堀にでも行けばよろしい。
まあ、ただの試し釣りである。
気楽にやろう。
そのようなことを思いながら意気揚々と降り立ってみればどうであるか。
落石だらけ、倒木だらけ。
散々な荒れ沢である。
うっかりすると、前のめりに転んで顔面を怪我しちゃいそうである。
それ痛いらしいよ。
肝心の魚影であるが、廃墟の如しとでも言えばいいのだろうか。
季節的な悪条件を差し引いても浮世というものは世知辛い。
しかもこの沢は高低差が大きい。
アタリがなければただ辛いだけの強制労働である。
やがてガレ場が終わりナメ床に変わる。
岩盤の亀裂に小さな魚影を発見できたものの、毛鉤を食わせるのは容易ではない。
後にも先にも釣果はこれだけである。
この沢筋の源頭には箸置きぐらいの岩魚たちが細々と棲んでいることが確認できた。
とびきりの貧果ではあったけれど、釣り師の受け止め方なんて、その時の釣果次第でコロコロ変わるものである。
一度や二度の釣行で一概に決めつけてはいけないと思うところではあるが、この沢にまた出掛けて来ることは多分ないだろう思う。
痩せ岩魚が僕たちの毛鉤を弾いただけのことである。
わざわざ人に話す心算もない。
仮にであるが、もっと魚影が濃くて釣りやすい沢だったらどうだったろうか。
そのような穴場であったら尚更他人になど言えるわけがない。
僕たちは口が堅いのである。
ずいぶん山歩きが早くなったじゃないか。
待ってくれ。置いて行かれちゃいそうだ。
足を止めてこれが野イチゴだと教えられる。
枝豆だけでお腹一杯。
やっぱり夏バテかね。
2022年08月11日
真夏の渓 釣り師の背中はモノを言う
八月や 六日 九日 十五日
敗戦の日が近い。
不戦の誓いを守るが如く渓魚たちは沈黙する。
国破れ 日輪焦土を灼きつける。
連日の容赦ない酷暑。
我が祖国では津々浦々で釣り師たちが路頭に迷う季節である。
この日、遠く鈴鹿の地から客人を迎える。
Kaz13さんである。
https://kaz13amago.naturum.ne.jp/

聞けば、日々釣り三昧に明け暮れており、しかも不漁知らず。
一回の釣行で渓魚を何十匹も釣りまくるという壮絶な隠居生活を実施中。
そのような御仁をだね。僕のような男が釣り場の案内をすることになっちゃったわけである。
しかもこの時期であるよ。
責任重大である。
もっと良い時期に来ればいいのに。
まあ、釣りまくるなどという大それたことは無理としても、型に拘わらず、渓魚の顔を拝むことができるだけでも御の字ではないだろうか。
さらに、比較的安全で肉体的苦痛を伴わない渓となると選択の余地は限られる。
どの道、渓魚を釣るには脚を使うことに変わりないがね。
時期も時期だし、型に拘らずに気楽にやりましょうなどと努めて控えめに言ってはみるものの、客人には泣き尺の二本や三本ぐらいは掛けてもらわないと僕が困る。
そこにB場ちゃんが加わる。

三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、この男が出してくる知恵は常に有益であり、日頃から大いに助けられてはいるけれど、その一方で絶え間なく発生させているのは副流煙である。
時には僕も煙草を喫うことがあるけれど、人の副流煙はイヤなものである。
まあ、人間蚊取り線香と思えばよろしい。
この時期に渓魚を掛けるのは決して楽な仕事ではない。
などと思いながら黙って見ていると、各人とも飽きない程度に毛鉤を食わせているようである。




まあ、腹に一物を抱えていそうなこの面子。
どう転んでも釣果ゼロということは無いにしても、日頃から釣れる習慣を身に付けておかないとこうはいかない。
逆に、釣れない釣りに慣れてしまうと、釣れなくて当たり前になっちゃうようである。


世間では自分の顔に責任を持てということになっているようであるが、釣り師にとって顔などはどうでもよろしい。
背中に責任を持つべきである。
後ろ姿には釣り師としての人間性が顕れる。

そのようなわけで、僕は人様が釣っているところを黙って観察するけれど、自身の釣り姿を見られるのはイヤなのである。
下流から追いつかれて背後を取られるようでは源流釣り師の恥だとさえ思う。
さて。
僕の釣果はどうか。
人様には釣果を尋ねても、自身の釣果は知られたくないのが釣り師というものである。
煙草を喫い過ぎちゃった。
胸が焼けるネ。

一風呂浴びて帰ろう。
敗戦の日が近い。
不戦の誓いを守るが如く渓魚たちは沈黙する。
国破れ 日輪焦土を灼きつける。
連日の容赦ない酷暑。
我が祖国では津々浦々で釣り師たちが路頭に迷う季節である。
この日、遠く鈴鹿の地から客人を迎える。
Kaz13さんである。
https://kaz13amago.naturum.ne.jp/
聞けば、日々釣り三昧に明け暮れており、しかも不漁知らず。
一回の釣行で渓魚を何十匹も釣りまくるという壮絶な隠居生活を実施中。
そのような御仁をだね。僕のような男が釣り場の案内をすることになっちゃったわけである。
しかもこの時期であるよ。
責任重大である。
もっと良い時期に来ればいいのに。
まあ、釣りまくるなどという大それたことは無理としても、型に拘わらず、渓魚の顔を拝むことができるだけでも御の字ではないだろうか。
さらに、比較的安全で肉体的苦痛を伴わない渓となると選択の余地は限られる。
どの道、渓魚を釣るには脚を使うことに変わりないがね。
時期も時期だし、型に拘らずに気楽にやりましょうなどと努めて控えめに言ってはみるものの、客人には泣き尺の二本や三本ぐらいは掛けてもらわないと僕が困る。
そこにB場ちゃんが加わる。
三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、この男が出してくる知恵は常に有益であり、日頃から大いに助けられてはいるけれど、その一方で絶え間なく発生させているのは副流煙である。
時には僕も煙草を喫うことがあるけれど、人の副流煙はイヤなものである。
まあ、人間蚊取り線香と思えばよろしい。
この時期に渓魚を掛けるのは決して楽な仕事ではない。
などと思いながら黙って見ていると、各人とも飽きない程度に毛鉤を食わせているようである。
まあ、腹に一物を抱えていそうなこの面子。
どう転んでも釣果ゼロということは無いにしても、日頃から釣れる習慣を身に付けておかないとこうはいかない。
逆に、釣れない釣りに慣れてしまうと、釣れなくて当たり前になっちゃうようである。
世間では自分の顔に責任を持てということになっているようであるが、釣り師にとって顔などはどうでもよろしい。
背中に責任を持つべきである。
後ろ姿には釣り師としての人間性が顕れる。
そのようなわけで、僕は人様が釣っているところを黙って観察するけれど、自身の釣り姿を見られるのはイヤなのである。
下流から追いつかれて背後を取られるようでは源流釣り師の恥だとさえ思う。
さて。
僕の釣果はどうか。
人様には釣果を尋ねても、自身の釣果は知られたくないのが釣り師というものである。
煙草を喫い過ぎちゃった。
胸が焼けるネ。
一風呂浴びて帰ろう。