2017年09月28日
クソ爺のこだわり・北国街道の宿場町
この日の仕事はごく容易で、それでいて移動距離が長いのである。
要するに、ほとんど一日がかりのドライブなのである。
仕事など、そそくさと片付けてしまえばよろしい。
前半の仕事を済ませて、茅野から山を越えて望月に向かう道中。
この道は三十年振りぐらいだろうか。
別荘の分譲地と商業施設だらけになってしまった。
阿弥陀岳と赤岳。
この二つは達者なうちに登っておきたいと思う。

蓼科山をいつもの反対側から。

後半の仕事もさっさと済ませて北国街道の宿場町跡。
ここは海野宿。
きれいに作られていて、歩き心地がよろしい。
平日のせいか空いていて、時代劇のセットのようでもあり、小学生が学校帰りに歩いていたりして微かに生活感も感じられる。


「クソ爺のこだわり」と書いてある。

「当のクソ爺殿はどちらにおいでかネ?」
尋ねると、ハイハイと自主申告をなさる潔さ。
この店先ではソフトクリームとか饅頭などの類の甘い物屋の気配がせず、僕にしては珍しく足を止めて、勧めれるまま試食までしちゃったのである。
つい、椎茸のフライを買ってしまった。
次は上田の柳町の通り。

酒屋、食べ物屋、甘いもの屋などが並んでいる。
観光地にありがちな商魂のたくましさが伝わって来る。
大河ドラマのファンには堪えられないのではないだろうか。

趣を醸す蕎麦店の壁に、素晴らしく手間をかけて作られた看板が架けられている。

よほど美味しい蕎麦に違いないとは思うが、万一期待が外れた場合、この看板と店構えが仇になりはしないか。
さて、釣りや山歩きの後の温泉は欠かせないけれど、仕事中に浸かる温泉も実に素晴らしい。
職場に戻る前に人知れず温泉に入らなければならない。

なぜか笑みが漏れる。
さて、件のクソ爺がこだわった椎茸のフライである。

予想はしていたけれど、これにはちょっとたまげた。
買い置きの第三のビールでやっちまったのは僕の不徳の致すところである。
さしずめ、エビスビールあたりをぶつけておいても十分に渡り合える実力を持っているのではないだろうか。
聞けば取材などの類は受けないことにしているそうである。
このクソ爺、そこらに転がっているただの爺ではない。
要するに、ほとんど一日がかりのドライブなのである。
仕事など、そそくさと片付けてしまえばよろしい。
前半の仕事を済ませて、茅野から山を越えて望月に向かう道中。
この道は三十年振りぐらいだろうか。
別荘の分譲地と商業施設だらけになってしまった。
阿弥陀岳と赤岳。
この二つは達者なうちに登っておきたいと思う。
蓼科山をいつもの反対側から。
後半の仕事もさっさと済ませて北国街道の宿場町跡。
ここは海野宿。
きれいに作られていて、歩き心地がよろしい。
平日のせいか空いていて、時代劇のセットのようでもあり、小学生が学校帰りに歩いていたりして微かに生活感も感じられる。
「クソ爺のこだわり」と書いてある。
「当のクソ爺殿はどちらにおいでかネ?」
尋ねると、ハイハイと自主申告をなさる潔さ。
この店先ではソフトクリームとか饅頭などの類の甘い物屋の気配がせず、僕にしては珍しく足を止めて、勧めれるまま試食までしちゃったのである。
つい、椎茸のフライを買ってしまった。
次は上田の柳町の通り。
酒屋、食べ物屋、甘いもの屋などが並んでいる。
観光地にありがちな商魂のたくましさが伝わって来る。
大河ドラマのファンには堪えられないのではないだろうか。
趣を醸す蕎麦店の壁に、素晴らしく手間をかけて作られた看板が架けられている。
よほど美味しい蕎麦に違いないとは思うが、万一期待が外れた場合、この看板と店構えが仇になりはしないか。
さて、釣りや山歩きの後の温泉は欠かせないけれど、仕事中に浸かる温泉も実に素晴らしい。
職場に戻る前に人知れず温泉に入らなければならない。
なぜか笑みが漏れる。
さて、件のクソ爺がこだわった椎茸のフライである。
予想はしていたけれど、これにはちょっとたまげた。
買い置きの第三のビールでやっちまったのは僕の不徳の致すところである。
さしずめ、エビスビールあたりをぶつけておいても十分に渡り合える実力を持っているのではないだろうか。
聞けば取材などの類は受けないことにしているそうである。
このクソ爺、そこらに転がっているただの爺ではない。
2017年09月25日
岩菅山の先には裏岩菅山
小さな沢を二つ渡って、取りついた尾根を登り切るとのっきりに出る。
少し歩くと視界が開ける。
きっとこのあたりが森林限界なのではないだろうか。

雲の上に鹿島槍と劔。
此奴ら流石。

ひんやりとした空気が僕にはとても気持ちがいい。
なんだか身体が軽くなる。
山頂まで少しピッチを上げてみたくなる。
岩菅山の山頂。


ここで快哉を叫びたいのは人情だけれど、僕にはまだ先がある。
裏岩菅山までの吊り尾根のような稜線を、思いを馳せつつ一人で歩かなければならない。
ここが僕にとって今回の核心である。
笹とハイマツと栂。
時々シャクナゲが顔を出す。

歩いて来た道を時折振り返ってみたくなる。
人生にもそんな時があるのではないだろうか。
笹がキラキラ光って見えたりする。

ここは凡そ海抜2300mの稜線。
思いがけずこんな出会いは嬉しい。

人にもよるだろうけれど僕は岩魚釣り師である。
さて、裏岩菅山の山頂。


僕に限ってはこの山に足を向けてはならない。
合掌。
鳥甲山。
此奴はけっこう手強い。

中岳から烏帽子岳。
その奥に苗場山の台状湿原。
きっと、大勢の登山客が歓声を上げているに違いない。

佐武流山から上信越国境の深い山群。

ここからの眺めで唯一痛々しく思えるのがこれである。
焼額山の南斜面。

なます斬りである。
こんな開発ができた業者は限られている。
加えて、当時はそこら中から、スキーに連れて行けなどとせがんだり、それを引き受けたりした男女の群れが大挙して押しかけ、この山にたかっていたのである。
山の蛆である。
この岩菅山も、一方的に俎板の上にのせられてしまったことがあったけれど、斬り刻まれる直前に命拾いをしたことになっている。
当時の見識を備えた諸氏の尽力によるところが大きかったそうである。
他人の笛に都合よく踊らされても後々ロクな事にならない。
泡銭が定着したかどうか、あるいは天罰が下ったかどうか、僕などの知るところではないけれど、畳の上で往生できたとすればマシな方じゃないだろうか。
さて、長居をしたいのは山々ではあるけれど、いつかは帰らなくてはならない。

心を残しながらも足取りは軽く。
温泉依存症につける薬は源泉掛け流し。


少し歩くと視界が開ける。
きっとこのあたりが森林限界なのではないだろうか。
雲の上に鹿島槍と劔。
此奴ら流石。
ひんやりとした空気が僕にはとても気持ちがいい。
なんだか身体が軽くなる。
山頂まで少しピッチを上げてみたくなる。
岩菅山の山頂。
ここで快哉を叫びたいのは人情だけれど、僕にはまだ先がある。
裏岩菅山までの吊り尾根のような稜線を、思いを馳せつつ一人で歩かなければならない。
ここが僕にとって今回の核心である。
笹とハイマツと栂。
時々シャクナゲが顔を出す。
歩いて来た道を時折振り返ってみたくなる。
人生にもそんな時があるのではないだろうか。
笹がキラキラ光って見えたりする。
ここは凡そ海抜2300mの稜線。
思いがけずこんな出会いは嬉しい。
人にもよるだろうけれど僕は岩魚釣り師である。
さて、裏岩菅山の山頂。
僕に限ってはこの山に足を向けてはならない。
合掌。
鳥甲山。
此奴はけっこう手強い。
中岳から烏帽子岳。
その奥に苗場山の台状湿原。
きっと、大勢の登山客が歓声を上げているに違いない。
佐武流山から上信越国境の深い山群。
ここからの眺めで唯一痛々しく思えるのがこれである。
焼額山の南斜面。
なます斬りである。
こんな開発ができた業者は限られている。
加えて、当時はそこら中から、スキーに連れて行けなどとせがんだり、それを引き受けたりした男女の群れが大挙して押しかけ、この山にたかっていたのである。
山の蛆である。
この岩菅山も、一方的に俎板の上にのせられてしまったことがあったけれど、斬り刻まれる直前に命拾いをしたことになっている。
当時の見識を備えた諸氏の尽力によるところが大きかったそうである。
他人の笛に都合よく踊らされても後々ロクな事にならない。
泡銭が定着したかどうか、あるいは天罰が下ったかどうか、僕などの知るところではないけれど、畳の上で往生できたとすればマシな方じゃないだろうか。
さて、長居をしたいのは山々ではあるけれど、いつかは帰らなくてはならない。
心を残しながらも足取りは軽く。
温泉依存症につける薬は源泉掛け流し。
2017年09月23日
最後の週末はキャスティングをチェック
禁漁直前ではあるけれど、なぜか悪あがきをする気にはならない。
芝生の上でキャスティングのループを点検する。
釣り場でついたクセを戻しておかなければならない。
これを怠ってしまうと後で苦労することになる。

高番手と低番手のサオを交互に振ってループを確認する。
川での距離感をイメージしたり。
まあまあ許容範囲かな。
釣り場まで体を運ぶことと、キャスティングだけは他人に丸投げできない。
頼まれた側も引き受けてあげられない。
さてさて、フライフィッシャーにとっては長くつらい季節が始まる。
芝生の上でキャスティングのループを点検する。
釣り場でついたクセを戻しておかなければならない。
これを怠ってしまうと後で苦労することになる。
高番手と低番手のサオを交互に振ってループを確認する。
川での距離感をイメージしたり。
まあまあ許容範囲かな。
釣り場まで体を運ぶことと、キャスティングだけは他人に丸投げできない。
頼まれた側も引き受けてあげられない。
さてさて、フライフィッシャーにとっては長くつらい季節が始まる。
2017年09月19日
台風18号と禁漁前の木っ端岩魚
この川はどこに出しても恥ずかしくない岩魚の名川なのだけれど、入渓しやすいせいか連日の満員御礼が難点である。
さらに盛期には、そこそこ名前の売れたプロや無名の何某などが釣り教室を催したり、地元の釣り師が素人を集めて釣り場の案内を生業にしたり、そんな具合になっちゃったのである。
僕がこの川で釣りをしなくなってけっこうな年数が経ってしまった。
長く通った釣り場ではあるけれど。
要するに満員御礼が問題なのである。
川は両国国技館ではない。
さて、この週末の主役は台風18号である。
この大型の台風は、どこからともなく湧いて出る釣り師などとは役者が違う。
禁漁前の夕日を背負った釣り師の群れなど、塵芥の如く蹴散らすに違いない。
こんな時に釣りに行く奴ははっきり言ってバカである。
そうは言ってもそんな時ぐらいしか僕の出番は無い。
見聞色の覇気で釣り場を読む。
台風の間隙を突いて釣り場に立つ。
僕に限ってであるが、この川では並大抵のことで怪我をしたり、死んだりする気がしない。
コトのついでだから、敢えて目糞が鼻糞を笑うのだけれど、世の中は広い。
バカの見本が何人かいた。
僕が帰る頃に数人の釣り師が到着し、その後入渓したようである。
彼らは平穏な日常生活の大切さをわかっているのだろうか。
ここは常在戦場に違いないけれど、意味を履き違えると大怪我をする。
さて、本題である。
相当な増水であるが、とりあえず岩魚を掛けなければならない。
それも、繊細なプレゼンテーションが必要な、叩かれ続けた木っ端岩魚でなければならない。
年に一度ぐらいはこんな釣りをしなければならないそうである。
ランディングネットを使うのは何年振りだろうか。


このネットは釣友のKONちゃんが手製してくれたものだ。
彼のお嬢さんは先週末に嫁いで行ったそうである。
電話口での声は嬉しそうであったけれど、年頃の娘を持つ親父だけが味わう一抹の寂しさは無かったのだろうか。
いや、無ければならない。
こんな日の良型は嬉しい。
この尾鰭はなかなか強かった。

重い水流。
この水量は尋常ではない。


次第に背中のネットを取り出すのが面倒になってくる。


おおよそイメージ通りの釣りをほぼ二時間。
今年の釣りはこれにてお仕舞い。
皆尽と言っていい。
釣り納めの後はいつもの温泉。

生酒と鮭の腹身が冴える。

さらに盛期には、そこそこ名前の売れたプロや無名の何某などが釣り教室を催したり、地元の釣り師が素人を集めて釣り場の案内を生業にしたり、そんな具合になっちゃったのである。
僕がこの川で釣りをしなくなってけっこうな年数が経ってしまった。
長く通った釣り場ではあるけれど。
要するに満員御礼が問題なのである。
川は両国国技館ではない。
さて、この週末の主役は台風18号である。
この大型の台風は、どこからともなく湧いて出る釣り師などとは役者が違う。
禁漁前の夕日を背負った釣り師の群れなど、塵芥の如く蹴散らすに違いない。
こんな時に釣りに行く奴ははっきり言ってバカである。
そうは言ってもそんな時ぐらいしか僕の出番は無い。
見聞色の覇気で釣り場を読む。
台風の間隙を突いて釣り場に立つ。
僕に限ってであるが、この川では並大抵のことで怪我をしたり、死んだりする気がしない。
コトのついでだから、敢えて目糞が鼻糞を笑うのだけれど、世の中は広い。
バカの見本が何人かいた。
僕が帰る頃に数人の釣り師が到着し、その後入渓したようである。
彼らは平穏な日常生活の大切さをわかっているのだろうか。
ここは常在戦場に違いないけれど、意味を履き違えると大怪我をする。
さて、本題である。
相当な増水であるが、とりあえず岩魚を掛けなければならない。
それも、繊細なプレゼンテーションが必要な、叩かれ続けた木っ端岩魚でなければならない。
年に一度ぐらいはこんな釣りをしなければならないそうである。
ランディングネットを使うのは何年振りだろうか。
このネットは釣友のKONちゃんが手製してくれたものだ。
彼のお嬢さんは先週末に嫁いで行ったそうである。
電話口での声は嬉しそうであったけれど、年頃の娘を持つ親父だけが味わう一抹の寂しさは無かったのだろうか。
いや、無ければならない。
こんな日の良型は嬉しい。
この尾鰭はなかなか強かった。
重い水流。
この水量は尋常ではない。
次第に背中のネットを取り出すのが面倒になってくる。
おおよそイメージ通りの釣りをほぼ二時間。
今年の釣りはこれにてお仕舞い。
皆尽と言っていい。
釣り納めの後はいつもの温泉。
生酒と鮭の腹身が冴える。
2017年09月15日
しめサバを作る釣り師
しめサバは僕が作ることができる数少ない一品。
三枚におろして、血合い骨を抜く。
すかさず塩で殺して酢でしめる。
たったそれだけである。

しめ方は浅い方が僕は好きだ。
塩加減や酢の具合にちょっとしたコツがあるといえばある。
そこは感覚的なことで上手く説明できない。
時代遅れなアナログ男の極がこのしめサバにある。
無駄口をたたいているヒマにできてしまった。

男の手料理はこうでなきゃいけない。
カタカナの覚えにくい名前のついた料理など僕には無理だ。
不器用で世渡りの下手な男は、寡黙にしめサバを食っていればよろしい。

三枚におろして、血合い骨を抜く。
すかさず塩で殺して酢でしめる。
たったそれだけである。
しめ方は浅い方が僕は好きだ。
塩加減や酢の具合にちょっとしたコツがあるといえばある。
そこは感覚的なことで上手く説明できない。
時代遅れなアナログ男の極がこのしめサバにある。
無駄口をたたいているヒマにできてしまった。
男の手料理はこうでなきゃいけない。
カタカナの覚えにくい名前のついた料理など僕には無理だ。
不器用で世渡りの下手な男は、寡黙にしめサバを食っていればよろしい。
2017年09月11日
蓮華岳・北アルプスの稜線を独り占め
針ノ木雪渓に沿って歩いていくと、ひんやりとした風が吹き下ろしてくる。
やれ、ありがたい。
少しだけ、夏の暑さから立ち直れそうな気がしてくる。

毎年ここを歩いていると、年を追って体力と気力が目減りしていることがわかる。
溪の歩き方なども考えなければならない。
稜線の近くまで登って来ると、時々後ろを振り向きたくなる。
高度を上げるごとに猫の耳がせりあがって来る。

さて、針ノ木峠である。

ここからは針ノ木岳にも蓮華岳にも行くことができるのだけれど、今年は蓮華岳の番である。
時間に余裕が無いわけじゃないけれど、片方をこなしてしまうとそれだけで満足して、下山後の温泉と冷えたヤツに気持ちが向いてしまうのは致し方の無い事ではないだろうか。
僕に健全な登山者精神は無い。
針ノ木小屋の庭先から。
此奴、少しばかり自己主張が過ぎるのではないだろうか。

ちょうどそのころ、この穂先に向かっていた登山客が北鎌尾根で一人、他にも徳沢の辺りで一人、北穂高で一人、合わせて3人が死亡したそうである。
この山域での遭難者数は高止まりが続いており、その9割近くが県外からの登山客だということになっている。
これが登山以外の、例えば渓流釣りや山菜採りなどになると、逆に地域住民が遭難者になることが多いようである。
死亡や重傷は別として、運良く無傷やかすり傷程度で救助されて命拾いをした遭難者は、以後神妙に自粛をいたすのだろうか。あるいは、熱さが喉元を過ぎてしまえば懲りずに現場復帰を企むのだろうか。
また、家族や親族の心配や不安はどうであろうか。敢えて言及すれば世間体などもありはしないか。
思えば3年前、僕がこの場所でこの山群を同じように眺めていた時に御岳山が噴火している。
さて、気分を変えよう。
蓮華岳はどこから眺めても冴えない形をしている。
要するに見た目が悪い山なのである。
けれど、居心地の良さは群を抜いている。
僕はこの山をとても気に入っている。

加えてありがたいことにこの山はいつも空いている。
この日も行き交った登山客は片手にも届かない。
視界の中には誰もいない。
これほどに開放的な稜線をほぼ独占できちゃうのである。
徐々に剱岳と立山が見えてくる。

白馬岳の先端。

生き残り達。


天寿を全う。

山頂直下。

歩いてきた広い稜線と針ノ木岳。

山頂も独り占め。


これは実に嬉しい。
ライチョウの群れは、健全な登山者精神に欠けている岩魚釣り師にも、等しく姿を見せてくれるのである。

ここでパートリッジを連想したとすれば、それは相当に罪深い。
この道中では水場には困らない。
中でも大沢小屋から下ったところの湧水は素晴らしい。

麓の里では蕎麦の花の季節。

これで昇天。

やれ、ありがたい。
少しだけ、夏の暑さから立ち直れそうな気がしてくる。
毎年ここを歩いていると、年を追って体力と気力が目減りしていることがわかる。
溪の歩き方なども考えなければならない。
稜線の近くまで登って来ると、時々後ろを振り向きたくなる。
高度を上げるごとに猫の耳がせりあがって来る。
さて、針ノ木峠である。
ここからは針ノ木岳にも蓮華岳にも行くことができるのだけれど、今年は蓮華岳の番である。
時間に余裕が無いわけじゃないけれど、片方をこなしてしまうとそれだけで満足して、下山後の温泉と冷えたヤツに気持ちが向いてしまうのは致し方の無い事ではないだろうか。
僕に健全な登山者精神は無い。
針ノ木小屋の庭先から。
此奴、少しばかり自己主張が過ぎるのではないだろうか。
ちょうどそのころ、この穂先に向かっていた登山客が北鎌尾根で一人、他にも徳沢の辺りで一人、北穂高で一人、合わせて3人が死亡したそうである。
この山域での遭難者数は高止まりが続いており、その9割近くが県外からの登山客だということになっている。
これが登山以外の、例えば渓流釣りや山菜採りなどになると、逆に地域住民が遭難者になることが多いようである。
死亡や重傷は別として、運良く無傷やかすり傷程度で救助されて命拾いをした遭難者は、以後神妙に自粛をいたすのだろうか。あるいは、熱さが喉元を過ぎてしまえば懲りずに現場復帰を企むのだろうか。
また、家族や親族の心配や不安はどうであろうか。敢えて言及すれば世間体などもありはしないか。
思えば3年前、僕がこの場所でこの山群を同じように眺めていた時に御岳山が噴火している。
さて、気分を変えよう。
蓮華岳はどこから眺めても冴えない形をしている。
要するに見た目が悪い山なのである。
けれど、居心地の良さは群を抜いている。
僕はこの山をとても気に入っている。
加えてありがたいことにこの山はいつも空いている。
この日も行き交った登山客は片手にも届かない。
視界の中には誰もいない。
これほどに開放的な稜線をほぼ独占できちゃうのである。
徐々に剱岳と立山が見えてくる。
白馬岳の先端。
生き残り達。
天寿を全う。
山頂直下。
歩いてきた広い稜線と針ノ木岳。
山頂も独り占め。
これは実に嬉しい。
ライチョウの群れは、健全な登山者精神に欠けている岩魚釣り師にも、等しく姿を見せてくれるのである。
ここでパートリッジを連想したとすれば、それは相当に罪深い。
この道中では水場には困らない。
中でも大沢小屋から下ったところの湧水は素晴らしい。
麓の里では蕎麦の花の季節。
これで昇天。
2017年09月06日
1番ラインの道具立て
先頃、ある名人から1番ライン用の道具を一揃い譲り受けた。
要するに頂いちゃったのである。
なんだか生前贈与に思えなくもない。


若い頃、この類のサオに思いを馳せたことがある。
溪魚を掛けたら、サオには手元からぐにゃりと曲がって欲しくて仕方が無かったのだけれど、年々物欲から解脱して、近頃ではすっかり道具へのこだわりが無頓着になってしまった。
結局、1番ラインに手を出すことが無いままになっていた。
今の僕にこのサオを譲ってくれるということは何か理由があるに違いない。
人目を忍びつつ、山深い溪を跳梁跋扈しているばかりではいけない。
年に一度ぐらいは、釣り人がひしめき合う入溪の容易な川に出向いて、プレゼンテーションに細心の注意を払い、苦労してやっと一匹の木っ端岩魚を釣ることを忘れてはいけないということだろうか。

僕にこのサオの持ち味をうまく引き出せるだろうか。
宝の持ち腐れになってしまわないだろうか。
釣り場に立つ前に少し振ってみて手に馴染ませなければ。
サオは飾り物ではない。
溪魚を掛ける道具である。
わかっちゃいるけれど。
ウデがついていかないことには・・・。
今年はもう店仕舞にしてもいいかなと思っていたのだけれど、そうも言っていられなくなっちまった。
要するに頂いちゃったのである。
なんだか生前贈与に思えなくもない。
若い頃、この類のサオに思いを馳せたことがある。
溪魚を掛けたら、サオには手元からぐにゃりと曲がって欲しくて仕方が無かったのだけれど、年々物欲から解脱して、近頃ではすっかり道具へのこだわりが無頓着になってしまった。
結局、1番ラインに手を出すことが無いままになっていた。
今の僕にこのサオを譲ってくれるということは何か理由があるに違いない。
人目を忍びつつ、山深い溪を跳梁跋扈しているばかりではいけない。
年に一度ぐらいは、釣り人がひしめき合う入溪の容易な川に出向いて、プレゼンテーションに細心の注意を払い、苦労してやっと一匹の木っ端岩魚を釣ることを忘れてはいけないということだろうか。
僕にこのサオの持ち味をうまく引き出せるだろうか。
宝の持ち腐れになってしまわないだろうか。
釣り場に立つ前に少し振ってみて手に馴染ませなければ。
サオは飾り物ではない。
溪魚を掛ける道具である。
わかっちゃいるけれど。
ウデがついていかないことには・・・。
今年はもう店仕舞にしてもいいかなと思っていたのだけれど、そうも言っていられなくなっちまった。