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2023年02月06日

三種の蕎麦粉

草木も凍える厳冬期。
源泉かけ流しが恋しくて恋しくて、久しぶりに訪ねた師の手元に入荷した三種類の蕎麦粉。



いずれも粗挽きには違いないのだが、丸抜き、挽き抜き、皮付きと、それぞれ違った挽き方がされているから、さっそく打ち比べて試食をしてみようじゃないかと、要するにそういうことになっちゃったわけである。

打ち手は二人であるから、僕は作業の手順を考慮しつつ助手を務める。
その傍ら、この場にいない釣友たちの陰口を叩くのは釣り師として至福と言わざるを得ない。

粗挽きの蕎麦粉を打つには相応のコツがいるらしいのであるが、やってみると確かに難しくて、それぞれに特性があることがよくわかる。








さて、肝心の味はどうか。



中でも、とびきり扱い難くて、もしかしたらダメじゃないかと諦めかけた粉。
どうにか蕎麦切りに漕ぎつけて手繰ってみて驚いた。

この蕎麦の香り。
仮に、男女の仲がこうだったら人生が狂っちゃう。
  


Posted by SFM at 21:35Comments(2)釣り師の日常

2022年12月26日

やっと新蕎麦にありつけた

新蕎麦が出回り始めたのは先々月。
今年の蕎麦粉の出来は頗るいいらしいのであるが、あんなことやこんなことで、なかなか蕎麦を打てずに悶々と過ごす日々。


世はすでに年の瀬である。
多少のことは犠牲にしてでも新蕎麦をやっておかなければ後世に悔いを残すことになりはしないか。

粉に触れると指先に蕎麦の香りが立つようである。

それならほんの少しばかり細めに仕立てればよろしい。



因みに、蕎麦の打ち上がりというものは手抜きをすれば一目瞭然である。
さらに言うと、雑念や邪心などの類が顕著に表れる。
こればっかりは技術以前の問題であるとしか言いようがない。
政権与党の関係者にはお勧めできない。


蕎麦前で軽くやって、締めは盛りを一枚。





正直者の一日が終わる。
  


Posted by SFM at 22:12Comments(2)釣り師の日常

2022年12月10日

旧統一教会は渓谷までは勧誘に来なかった

僕が暮らす山国の県議会には57人の議員がいて、そのうちの17人が旧統一教会と関わりがあって、その占める割合を計算すると29.82パーセントである。
要するに、県議が10人いれば3人は旧統一教会と関係しているわけである。
内訳は自民党所属議員が15人、県民クラブ・公明所属議員が2人である。


僕自身はカネを持っていないことが一目瞭然のせいか、あらゆる宗教団体から勧誘を受けた経験が一度も無い。
けれど、長年にわたる変異株のような旧統一教会の暗躍振りを、つい先頃まで気付かなかったのは釣り師として不徳の致すところである。

そうは言っても、このような反社会的宗教団体と深く結びついた政権与党は、反社会的政党と言わざるを得ない。

先月には現職の県議が殺人容疑で逮捕されたり、7月の参議院選挙では不倫をしていた候補者を担ぎ出したりして、自民党県連は滅茶苦茶らしいのである。

仮にであるが。
今、ここで膿を出し切ることが出来たらどうであろうか。
多分、使い切った練りワサビのチューブみたいに空っぽになっちゃうよ。




  


Posted by SFM at 10:57Comments(2)釣り師の日常

2022年10月18日

我が家に豆アジがやってきた

僕が寝ている頃。
苦労人と遊び人が連れ立って海に出掛けたらしい。

因みにであるが、僕は残業が嫌いだけれど夜勤はもっと嫌いなのである。

翌朝。
我が家に豆アジを届けに立ち寄ったのは遊び人の方である。



開きやタタキなどの類は物理的に無理である。
まあいい。

当の苦労人と遊び人は暗がりで豆アジと戯れつつ、誹謗中傷の応酬を繰り広げたに違いない。
寝ていた僕は心が和む。

どれ、食ってやるか。


  


Posted by SFM at 19:48Comments(2)釣り師の日常

2022年10月12日

病み上がりの釣友

先月に退院した先輩釣り師のささやかなる快気祝い。







病み上がりであれ何であれ、大酒振りは健在である。
これではどっちが病み上がりかわかりゃしない。


さらに、段ボール箱に放り込まれたフライリールの山を見せ付けるあたり、この男の手元には、これらに見合う莫大なサオも保有されているに違いない。
内心口にも出すけれどタジタジになっちゃう。



ジョニーウォーカーを空にするのはいいけれど、「一ついかがかな?」とは言わなかったのであるよ。

まあいい。
健在そうで何よりである。

でも、釣りは生きているうちにやっておいた方がいいと思うよ。
  


Posted by SFM at 20:05Comments(2)釣り師の日常

2022年06月26日

岩魚街道 ネマガリダケなんか食ってやった

時には藪漕ぎを避けて通ることができない釣り師の人生。

中でもネマガリダケの藪漕ぎは、こんな苦労をするぐらいなら死んだ方がマシだと思えるほど過酷な重労働であるが、藪を制圧した釣り師は渓の全てを手に入れることができる。

仮にであるが、山深いネマガリダケの藪の中に岩魚を釣るためだけの杣道が先人の手によって切られていたとして、今でも人知れず空白の歴史を紡ぐ男が生き残っていたとしたらどうであろうか。
はっきり言って、ただの釣りバカとしか言いようがない。
本人が言うのであるから間違いない。



釣り師にとってネマガリダケは煮ても焼いても食えない抵抗勢力ながら、北信濃を代表する初夏の味覚として絶大な勢力を誇る人気者なのである。

皮を剥いて節を取り除いてしまうと、ほんの僅かしか食べるところが残らないという極めて歩留まりの悪い食材にも拘わらず、殊のほか愛好者が多いようで、この季節になると大勢のタケノコ採りが各地で大発生し、夜明けを待たずに一斉に薮に飛び込む様はどこか悲壮感を感じさせる。

さらに、タケノコを採っているうちに方向がわからなくなって、薮の中で力尽きて動けなくなっちゃうという遭難事故が多発するのもこの季節の風物詩である。

聞く所によると、ネマガリダケは食品市場ではとりわけ高値で取引されている高級食材らしいから、タケノコ採りの意識の中には、キロあたりの相場から一本あたりの単価を割り出して、これを何本採ればいくらになるというような計算が常にされているに違いない。
身も蓋も無いことを言うようだけれど、金銭に対するささやかな執着心が遭難の発生に多少なりとも影響しているのではないかと察せられちゃうあたり、微笑ましくもあり、人間的でもあると思いつつ、敢えて多くは語るまい。

まあ、そのあたりに関してはタケノコ採りが抱える永遠のテーマであるから、ネマガリダケが存在する限り、毎年のように同じことが繰り返されるに違いない。

けれど、笹薮の中で迷子になっちゃうのが釣り師であったとしたら話が変わってくる。
釣りの亡者と言わざるを得ない。

そのようなことが起きないように、岩魚の道には手入れが不可欠である。
藪は生き物であるから放っておくとすぐに道が塞がっちゃうのである。




本来であれば、このような仕事は若い世代が率先してやるべきであるが、良くも悪くもこの時世。
今時の若い奴等は全く以って使い物になりゃしないと嘆いた年配者の心情がこの年になってよくわかる。

そんな長年にわたる僕の苦労を分かち合うべく、自ら手助けを申し出てくれたのがB場ちゃんである。
咥え煙草でポケットに手を突っ込んで歩く様は相変わらずではあったがね。



しかも、充電式の電動工具まで持参してくれちゃうほどの至れり尽くせり。



このような男を人財という。
ここで財の字を充てたのはお察しのとおりである。
釣り師というものは人間性が顕著に顕れる人種である。
人財、人材、人在がそれぞれあり、ごく稀に人罪というものが存在する。

などと思いながら、この上なく辛い仕事をこの上なく心穏やかにこなすことができたのは釣友によるところである。

釣友の有難さが身に沁みて、副流煙が目に沁みた。


散々薙ぎ払っておきながら、ネマガリダケは今が旬である。
採り頃ぐらいは僕にもわかる。





採っちゃったものは仕方がない。
仕方がないから食ってやる。




僕の名はSFM。
わけあって、この渓谷の王になっちゃったと言えばなっちゃったのだろうけれど、年も年だし、近々引退したいと願いつつ、それもままならずに途方に暮れている男だ。
よろしく。



  


Posted by SFM at 20:50Comments(0)釣り師の日常

2022年05月29日

つけ場のハヤで甘露煮を仕立てる

縁あってハヤのお裾分けを賜ることになった。

僕が少年時代に足元に群れていたハヤやオイカワなどの小魚たちを、身近な川で素朴に釣ってみたいと思いながら、そのような水辺の心当たりが無くなってしまったことを寂しく思っていたところである。



聞けば、今でも彼らは逞しく生き残ってはいるけれど、往年に比べると大きく減少したことに変わりはないそうである。


僕はやったことはないけれど、つけ場漁という伝統漁法が信州にある。

この時期に川底に砂利を敷いておくと、卵を産むためにハヤがうじゃうじゃと集まってくる。
そこを狙って投網を打ち、一網打尽にするそうである。

けれど、口で言うほど簡単ではなく、砂利の敷き方が気に入らなければハヤは集まってくれなかったり、網を打つタイミングがずれると一匹残らず逃げられたりと、そうそう楽な話でもないらしいのである。


実を言うと、アブラビレの無い魚を喜んで頂戴したのはわけがあって、以前から川魚を使って手製の甘露煮を作ってみたかったのである。

それなら、小ぶりな渓魚を揃えればよいではないかということになるが、抵抗感、罪悪感、世間体、その他諸々。
こう見えても毛鉤釣り師のはしくれであると言えば心中お察しいただけることと思う。

そのようなわけで、紆余曲折を経た岩魚釣り師が、ようやく小魚の甘露煮に初挑戦する運びに漕ぎ着けたところなのである。

そうは言っても、生まれてこのかた煮魚ひとつ作ったことがない岩魚釣り師ゆえ、出来上がるまでは半信半疑。


煮崩れを防ぐために素焼きをしなければならないそうである。




粗大ゴミの如き燻製器が活躍するのはいつ以来だろうか。




風乾の後、圧力鍋で15分。




ささやかな念願が叶った瞬間。




欲を言えば。
秋口にカジカを釣って、焼き干しで一杯やることができたら思い残すことはない。・・・かも知れない。
  


Posted by SFM at 21:13Comments(0)釣り師の日常

2022年05月04日

サオを持たずに川に行く

GW後半。
世間では、徹底した感染対策の下に集客や各種のイベントが開催されることになっているそうであるから、観光地には観光客が集い、屋内外を問わず商業施設はさぞかし賑わっているに違いない。

各地の釣り場も盛期を迎え、それなりに賑わいを見せているだろうけれど、僕は地政学的な根拠に基づき入渓に踏み切れずに日々を過ごさざるを得ない。

それでも初入渓に備えて川の下見ぐらいはやっておきたいところである。

半年振りに引っ張り出したにも拘わらず、単車の機嫌は頗るよろしい。




現地を見るところ結構な水量である。



試しにKONちゃんあたりを連れて来て渡らせてみたらどうであるか。
恐らく流されるに違いない。
などと、流心で右往左往するであろう釣友の姿から季節感がイメージ出来ちゃったのである。
あくまで想像である。
こう見えても僕は鬼ではない。
本人はつゆ知らぬことである。
敢えて面と向かって言う必要は無いけれど、人生には命からがら激流を渡り切らねばならない局面がないとは言えない。

日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。


さて、手ぶらで帰るのもどこか忍びない。
そんな時には人知れぬワサビ畑。

岩魚釣り師の暮らしは慎ましい。
タダで得たワサビを載せたお茶漬けなどで空腹を紛らわすのである。


  


Posted by SFM at 20:15Comments(2)釣り師の日常

2022年04月13日

カラスの巣 アケビの巣ごもり

某所、照明設備にかけられたカラスの巣である。

その実態はどうであるかというワケで現状確認。

酔狂にも程があるとは思いつつも、人様に頼まれちゃうと余程のことがなければイヤとは言い出せない小心者の岩魚釣り師がここにいる。



見れば、指ぐらいの太さの枝で外殻を作り、中間に小枝、内側は枯れ草や杉の皮などを使って緻密に設えてあり、適材適所の極みであるであると僕は思う。

カラスの巣を上から見るのは初めてだけれど、卵はなぜか緑色である。


さて。
この季節にふさわしくない連日の夏日は急速に桜を咲かせてくれたけれど、その反面、すぐに散らせてしまうに違いない。


季節柄、ついついその気になって渓に出掛けて行きたくなる気持ちはよくわかるけれど、実際に現場に立ってみれば山国の渓はそう甘くないことぐらい僕は身に沁みている。

恐らくではあるが、条件が整わない小渓などに赴き、僅かな渓魚を辛抱強く拾い歩いているであろう釣友たちの姿が目に浮かぶ。
自身の若かった頃を見るようである。
因みに彼らは同世代ではあるがね。

いずれ経験が生きて、場が読める時が来る。
日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。

などと、釣りにも行かずに、自身に都合の良い理屈ばかりを並べ立てて、自堕落な日々を過ごしている僕が首を長くして待っていた初物はアケビの新芽なのである。

さらに、ゆえあって雪室貯蔵の純米大吟醸が僕の手元にある。
しかも、よく冷えているのであるよ。



さっそく仕立てたアケビの新芽の巣ごもり。
どこかカラスの巣を思い出しちゃう。

ところで。
しばらく続くであろう酒浸りの日々。
抜け出せるのはいつになることやら。
  


Posted by SFM at 20:47Comments(0)釣り師の日常

2022年03月20日

純米大吟醸がやってきた

蒸留酒に明け暮れた半世紀。
あまり胸を張るようなことではないけれど、酒歴にかけては人後に落ちぬ自負を持って生き抜かざるを得ない岩魚釣り師ながら、日本酒というものを愉しめるようになったのはここ数年である。

そんな日本酒初心者である僕に従弟が届けてくれた純米大吟醸。
僕如きには勿体無い逸品。



心安らかなる瞬間。
自らの心を安らかに過ごすことが相手の心を安らかにすることに繋がるわけである。
安心とはそういうものである。


さて。
ウラジミール・プーチンという男の体内に流れる血液が何色であるか僕が知る由もないけれど、その首に懸けられた懸賞金額は3月18日の東京外国為替市場における終値で計算すると1億1915万2千円ということになる。

仮にであるが、首尾よくプーチンを捕獲できた場合、獲得した懸賞金が一時所得とみなされたら課税対象にされちゃうのだろうか。
形式としては一般競争入札に近いから、請負業務として取り扱ったとしても、この仕事には天文学的な経費が掛かるに違いない。
いずれにせよ、プーチンの首は、巷の海賊などより格段に安値で設定されているようである。
時代を超えて語り継がれそうな賞金首ではあるがね。


解禁日ではあるけれど、敢えて川に出掛けずに、手酌をやる釣り師がいてもいいのではないだろうか。
  


Posted by SFM at 19:32Comments(2)釣り師の日常