2018年03月01日
釣り師の蕎麦と善光寺商法の不都合?な真実
一夜明けて。
前夜は、素晴らしい料理と源泉掛け流しで癒されつつ、お酒の力も借りて、ほのぼのとした灯りが心中に煌いた釣り師たちであるが。
一晩寝て起きれば、そこには相も変わらない現実が重く横たわっている。
夕日を背負った瀬戸際の釣り師たちには、目に眩しい朝日が射し込むことはない。
物事の理とはそういうものである。
真新しいフライロッドを手に、心を慰める釣り師たち。

このサオに魂が入るのはいつになるのだろうか。
サオを愛でるのもいいけれど、使わなければ魚は釣れないのであるよ。
そんな朝。
右肩下がりに加速がついた釣り師たちの心情を察してか、この天川荘の宿六である先生曰く。
「蕎麦を打ちたいだけ打って、食べたいだけ食べて行きなさい。」
やれ、ありがたい。
ここは素直にお言葉に甘えていいのではないだろうか。
プロの仕事場で、プロの材料と道具を使って、素人が蕎麦を打つのである。
さてさて。


正直なところ、僕は人前で蕎麦を打つことに引け目を感じる。
人には相応の領分があると思うからだ。
僕はプロではない。
だから、蕎麦打ちを手ほどきしてくれた、この宿六先生のところに出入りしている身内の釣り師たちに限って、拙い手並みを許してもらっているのである。
さて、どれぐらいの拙さかと聞かれると、上手く説明出来ないのだけれど、信州信濃の善光寺商法の蕎麦店よりはいくらかマシなんじゃないかということになるだろうか。
誤解をされるといけないのであるが、「善光寺商法」を引き合いに出したのであって、「善光寺界隈」のことではないのである。
そうは言っても、ご聡明な貴方様はピンときたのではあるまいか。
思い当たるフシがおありなのではあるまいか。
余談になるけれど、この寺には本尊があるかどうか疑わしいのである。
七年ごとにとり行われる御開帳の期間中は、全国から参拝者の大群が押し寄せることになっている。
ついでにドローンも落下する。
要するに、宗教的商業主義の極みと思えばよろしい。
ところが公開されるのは模造品である。
恥ずかしながら、長年釣り師をやっているけれど、これほどの疑似餌にお目にかかったことが無い。
実物は本当にあるのだろうか。
誰も見たことが無ければ、見てもいけないことになっているそうである。
まさかとは思うが、無い物をあることにしているのだとすればいかがなものか。
意地が悪いと思われる向きもおいでかとは思うが、僕は「悪魔の証明」を示唆しているわけではない。
蓋を開けて、中身を確認すればいいだけのことである。
あって当たり前、無ければ無いだけのことである。
善光寺商法の根幹は、そのあたりにもあると思えるのは僕だけだろうか。
僕は疑似餌で渓魚を釣る毛鉤釣り師で、ついでに信州人でもあるから、そうそう偉そうなことを言えた筋合いではないけれど、一括りにされるのは謹んでご遠慮申し上げる。
まあいい。
善光寺の本尊など、この際どうでもよろしい。
本題に戻る。
要するに、そんな罪深い釣り師の手打ち蕎麦なのである。
前述のとおり、他人様にはそうそうお出ししたことが無い。
仮に手繰って頂いたとしても、常識のある大人であれば、不味いなどとは口が裂けても言うワケがない。
実際のところ、打ち手としての責任を果たせているのだろうか。
僕は心配性なのである。

一方、KONちゃんであるが、その笑顔には屈託など1ミリも見られない。
然るべきところに安置してもよいのではないだろうか。

南無阿弥陀仏。

ごちそうさまでした。
合掌。

前夜は、素晴らしい料理と源泉掛け流しで癒されつつ、お酒の力も借りて、ほのぼのとした灯りが心中に煌いた釣り師たちであるが。
一晩寝て起きれば、そこには相も変わらない現実が重く横たわっている。
夕日を背負った瀬戸際の釣り師たちには、目に眩しい朝日が射し込むことはない。
物事の理とはそういうものである。
真新しいフライロッドを手に、心を慰める釣り師たち。
このサオに魂が入るのはいつになるのだろうか。
サオを愛でるのもいいけれど、使わなければ魚は釣れないのであるよ。
そんな朝。
右肩下がりに加速がついた釣り師たちの心情を察してか、この天川荘の宿六である先生曰く。
「蕎麦を打ちたいだけ打って、食べたいだけ食べて行きなさい。」
やれ、ありがたい。
ここは素直にお言葉に甘えていいのではないだろうか。
プロの仕事場で、プロの材料と道具を使って、素人が蕎麦を打つのである。
さてさて。
正直なところ、僕は人前で蕎麦を打つことに引け目を感じる。
人には相応の領分があると思うからだ。
僕はプロではない。
だから、蕎麦打ちを手ほどきしてくれた、この宿六先生のところに出入りしている身内の釣り師たちに限って、拙い手並みを許してもらっているのである。
さて、どれぐらいの拙さかと聞かれると、上手く説明出来ないのだけれど、信州信濃の善光寺商法の蕎麦店よりはいくらかマシなんじゃないかということになるだろうか。
誤解をされるといけないのであるが、「善光寺商法」を引き合いに出したのであって、「善光寺界隈」のことではないのである。
そうは言っても、ご聡明な貴方様はピンときたのではあるまいか。
思い当たるフシがおありなのではあるまいか。
余談になるけれど、この寺には本尊があるかどうか疑わしいのである。
七年ごとにとり行われる御開帳の期間中は、全国から参拝者の大群が押し寄せることになっている。
ついでにドローンも落下する。
要するに、宗教的商業主義の極みと思えばよろしい。
ところが公開されるのは模造品である。
恥ずかしながら、長年釣り師をやっているけれど、これほどの疑似餌にお目にかかったことが無い。
実物は本当にあるのだろうか。
誰も見たことが無ければ、見てもいけないことになっているそうである。
まさかとは思うが、無い物をあることにしているのだとすればいかがなものか。
意地が悪いと思われる向きもおいでかとは思うが、僕は「悪魔の証明」を示唆しているわけではない。
蓋を開けて、中身を確認すればいいだけのことである。
あって当たり前、無ければ無いだけのことである。
善光寺商法の根幹は、そのあたりにもあると思えるのは僕だけだろうか。
僕は疑似餌で渓魚を釣る毛鉤釣り師で、ついでに信州人でもあるから、そうそう偉そうなことを言えた筋合いではないけれど、一括りにされるのは謹んでご遠慮申し上げる。
まあいい。
善光寺の本尊など、この際どうでもよろしい。
本題に戻る。
要するに、そんな罪深い釣り師の手打ち蕎麦なのである。
前述のとおり、他人様にはそうそうお出ししたことが無い。
仮に手繰って頂いたとしても、常識のある大人であれば、不味いなどとは口が裂けても言うワケがない。
実際のところ、打ち手としての責任を果たせているのだろうか。
僕は心配性なのである。
一方、KONちゃんであるが、その笑顔には屈託など1ミリも見られない。
然るべきところに安置してもよいのではないだろうか。
南無阿弥陀仏。
ごちそうさまでした。
合掌。
Posted by SFM at 20:16│Comments(0)
│釣り師の日常